Private Life

2012年09月08日

太陽光発電の事

私の自宅の屋根には、2005年12月以来、99枚の太陽光発電パネルが載っています。

現在経営危機に陥っている SHARP製のものですが、当時としては一番評価の高い太陽光発電モジュールという事で採用しました。完成した時は、これで我が家も少しはエコライフに貢献出来るようになれたかなと、勝手に自己満足していました。

しかし昨年3月11日の東日本大震災以来さまざまな新事実が明らかにされ、私の甘い幻想は見事に打ち砕かれました。そもそも昨年3月11日、足利市内が停電になった時、私は不覚にも自宅は太陽光発電装置があるので電気に関しては、少なくとも昼間は心配ないと考えていたのです。ところが自宅に設置してある発電装置は、発電した電気を東電へ売電するシステムであって、自宅のエアコンその他には使えないということを知りました。

理想としては、太陽光や夜間電力などで発電して蓄電池に蓄え、必要に応じて使用するスマートハウスのようなものを考えていますが、昨今の住宅メーカーの宣伝攻勢とは裏腹に、よくよく調べてみると現状では蓄電池の性能がまだまだ不十分な為、このシステムを完成させるにはあと2~3年はかかりそうです。

世界的なトレンドとして、脱原発、自然エネルギーへの転換が進んでいますが、太陽光発電や蓄電池など優秀な技術を持ち、この分野で先鞭を付けながらもあっさり中国、韓国に追い抜かれる日本の現状はとても歯がゆく、ここはやはり企業ガバナンスの改革ばかりでなく、政府が動いて為替や関税の問題などで、積極的な後方支援をすべきではないかと考えます。

また地球温暖化を阻止するためにもアメリカ、中国、インドなどのエゴを封じ込め、理論物理学者ホーキング博士の不気味な予言通りにならぬよう、CO2排出の少ないクリーンエネルギーへの転換を推進すべく、日本は技術面を中心にリーダーシップを執って行動すべきかと考えます。

こんな中、私は昔から夏が大好きで、「光老化皮膚」なる美容皮膚科のバイブルを熟読しながらも、肌を大きく露出して強い太陽の日差しを浴びる度、太陽光発電装置の如く全身にエネルギーが充満してくるのを感じます。

「女性ならいざ知らず、男がUVクリームを塗ってスポーツをするなど女々しすぎる!」などと心の中で暴言を吐きながら、今でも女性の参加者のいない日などは、短パンにシューズというスタイルで紫外線を全身に浴びながらテニスをし、皮膚ガンの恐怖やシミの増加と闘いつつも、「これが私の元気の源なのかも」などと自分を誤魔化しつつ、仲間といい汗をかいています。

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2012年08月22日

夏季休暇 in GUAM

8月13日から3泊4日、家族でグアムに行って来ました。

本当に直前になって、せっかくの夏休みなんだからどこか行こうという事になり、HISのファイナルキャンペーンに電話で応募し、偶然にもバカ安チケットが取れたというのが裏事情です。

今回は12年振りのグアムでしたが、前回と同じハイアットに泊まることになりました。ホテル前のビーチは以前より少し綺麗になっていましたが、プールその他の施設は同じ様なもので、これはつまりちゃんとメンテナンスが行き届いているという事だと思いました。

例によって到着直後からフロントのコンシェルジュをフル活用して、最もホットな情報を聞き出し、ランチ、ディナー、ショー見物などの計画を立てました。ガイドブックや旅行会社などの情報を鵜呑みにして行動すると痛い目に遭う事が多いので、海外に出た時はいつも現地の人達と仲良くなって、彼等からいろいろ教えてもらう事にしています。そしてもちろんすべての予約は自分で電話をかけずコンシェルジュに、タダでやってもらいます。

皆さんも、しっかり英会話をマスターして海外に行くと、情報収集、交渉、節約など、様々なベネフィットが得られますよ。

現在グアムの人口約17万人弱のうち30%近くはフィリピンからの移民、タクシードライバーはほぼ100%フィリピン人、毎年来島する100万人の観光客収入の9割近くは日本人からという状況のようです。わずか3時間40分で行ける南国リゾート、しかも立派な英語圏という事で、国内で留まっているよりはかなりの気分転換になりました。

今回の旅行を総括すると、

① ガイドブックはやっぱりいい加減なものであり信用できない。
② グアムの人達は皆とても親切でフレンドリーだがウェイトオーバーな人が多い。
③ 土産物は特に購買意欲をかきたてられる様なものはない。
④ ハイアットの部屋のトイレはTOTOのウォシュレットが標準装備されているがフロント回りのトイレには設置されていない。
⑤ ハイアットホテル隣にある「サンドキャッスル」のマジックショーは今年5月にRENEWALされてか
らはかなり大満足。


お薦めのレストランはイパオ公園近くにあり、グルメなローカルが通う「プロア」。スペアリブのBBQがご機嫌でした。

皆さんも機会があったら行ってみて下さい。                     
        

私は大学入学以来、ラルフローレンの白の定番ポロシャツを 今でも襟を立てて、洗いざらしで、もちろん素肌に着ています。(最近素材が劣化し困っていますが、他にこれといったブランドが見つかりません(´・ω・`))

このポロシャツはショートカットのヘアスタイル、適度の日焼け、そして厚く強靭な胸板という条件が揃わないとあまり似合わないと、私は勝手に思っています。そうは言っても今の私はアイスホッケーをやっていた学生時代、「肉団子人間」とか「金太郎」などと呼ばれ、胸囲120cm超を誇っていた頃と比べると、かなり見劣りするのは否めません。

中学、高校とハンドボール部に所属し、足利市立第3中学校時代は練習試合も含めて、3年間一度も負けた記憶がなく、3年生の時は栃木県大会で9年連続優勝(一応レギュラーメンバーでした)。足利高校時代も3年生の時、部員8名ながら県大会で優勝しています。試験期間と正月の3日間以外毎日練習という、普通科で全員進学という高校ではちょっと考えられないような超体育会系の生活が報われた瞬間でした。
 
以前ブログでも書きましたが、「TAKE IVY」との出会い以来、私の服装はトラッドが基本です。このファッションは流行を追う必要がなく、価格も手頃で、貧乏学生だった頃の自分にはとても合っていました。還暦を過ぎた今、雑誌LEONの提案するライフスタイルにも魅力を感じますが、やはりボタンダウンのシャツを着ると落ち着くし、これからもブランドや価格に惑わされず、自分で納得のいくものを身に着けて行こうと考えています。

しかし一番の基本は何といってもその中身だと思います。筋肉が委縮し垂れてしまった大胸筋や大臀筋、そしてしっかりと飛び出したお腹の脂は、和服を着れば誤魔化せますが、お風呂に入るとすぐにばれます。かつてソニーの盛田昭夫氏がゴルフを終えてラウンド仲間と風呂に入った時、仲間の尻の肉(大臀筋)が醜く垂れ下がっているのを見て、自分はこんな醜い姿にはなりたくないと、60歳から硬式テニスを始め、65歳からスキーを始めたという話が有名ですが、さすが盛田さん、という気がします。

私も7年前に、20歳から始めたゴルフを卒業し、最近はもっぱら硬式テニスとsquash,ジムのマシンでいい汗かいてますが、汗をかいた後のビールの味は、また格別です。

わたなべ整形外科の2階では美容皮膚科Bonheurを運営し、来院される方に「光老化皮膚」として、紫外線による皮膚への障害を説明している立場上、あまり大きな声では言えませんが、これからも上品に日焼けし、いつまでも白の半袖ポロシャツが似合う状態をキープしたいと思います。                                                                  2012.7.3 (2021.8.26改訂)

2012年05月13日

ボラボラ島の記憶

この季節、夏が近づいて来ると、海なし県に育ったせいか無性に海に行きたくなります。

ボラボラ島は、「南太平洋の真珠」と言われ、フランス領ポリネシアの中で最も美しいと称賛され、タヒチ島を含む118の島々から構成されるソシエテ諸島に属する島です。

日本で「タヒチ」と言ったら、それはボラボラ島のことを意味していると言ってもいいかと思います。成田からの直行便でタヒチ島の首都パペーテまで11時間、さらにプロペラ機で1時間の飛行の末、目指すボラボラ島に到着です。

この島は、環礁に囲まれており、ラグーンではほとんど波が立たず、遠浅で、散在するサンゴ礁には無数の熱帯魚が群がっています。

私はかつてこの島に、ハネムーンで行ったことがあります。当時は日本からの直行便もなく、ハワイ経由でした。現地で宿泊したのは「水上コテージ」と言ってビーチから桟橋を歩いて渡って行く、海の中に建てられた家でした。ベランダにベッドを移動して足元に泳ぐ熱帯魚達を観察しながらお昼寝していると、海を渡る潮風がとても心地よくさわやかで、まさにいま自分が地上の楽園にいるという事を実感できます。

ホテルのプライベートビーチから見える場所にホテル所有の無人島があり、滞在中この島にピクニックに行く事になりました。ボート何艘かに分乗し、20人程で出かけましたが、お目当てはこの島にある水族館です。水族館と言っても立派なものではなく、島のビーチの一部をメッシュ状のプラスティックフェンスで囲い込み、この中に大量の熱帯魚が泳いでいるという施設です。はじめはスタッフから渡された魚の切り身を手に持って、海中でサカナ君達に食べさせていましたが、徐々に慣れて来てからは、シュノーケルと水中眼鏡を装着してフェンスの中を悠々と泳ぐ数匹の巨大なマンタの背中に乗り(両手でしがみつき(^▽^;))、しばしの間マンタと一緒に海中遊泳を楽しみました。

私たちのボラボラ島滞在は1週間でしたが、欧米人たちはほとんどが1ヶ月のバカンスを楽しんでおり、親しくなった仲間たちから「何故こんなに短期間で帰ってしまうのか?」「ここが気に入らないのか?」などと、彼らからすれば極めて素朴な疑問を投げかけられ、日本という国のいろいろな意味での貧しさを痛感したことがあります。

一つの例として、夏のバカンスは1ヶ月位取るのが当たり前、というような社会環境が整備されてはじめて先進国の仲間入りだし、人間に与えられた短い一生を本当に充実させ、楽しむことにも繋がるのではと感じています。

「わたなべ整形外科」は、平成元年10月に開業してから現在23年目に突入していますが 、流石にこの位長く同じ場所で診療していると、足利市民の中で「わたなべ整形外科」の名前を知らない人が減って来たのを感じます。 

開業当初、東京の慶応病院から代診の先生が来ても、駅から乗ったタクシーの運転手さんが病院の場所を知らずに苦労したというのもまるで昔話のようです。
 
こんな中、開業以来当院を受診した患者さんの数も4月21日現在で84,595人に達しており、なんと足利市の人口の半分以上の人が当院を訪れている事になります。

そんなわけで、私は街のあちこち、コンビニ、スーパー、ホームセンター、レストラン、本屋さん、ショッピングセンターなど様々な場所で、当院通院中もしくは通院歴のある方達にお会いすることになります。この際余りにもイメージダウンになるような服装ではマズイかなと考え、身なりにはそれなりに気を使うようにしています。また、こちらが完全に忘れていて、相手の方が自分を覚えているような場合、声を掛けられた時は取りあえず笑顔で挨拶し、当たり障りのない会話をすることになりますが、この場合長引くと危険です。

一番まずい対応は相手が自分に挨拶しているのに、私がそれに気付かず挨拶を返さなかったケースです。この場合相手は私の事を、お高く留まっている、挨拶したのに無視された、などと勘違いし不快な感情を抱くことになります。これだけは是が非でも避けなければなりませんので、街へ出る時はいつもそれなりの緊張感を持って周囲に気を配り、常に「わたなべ整形外科」の看板を背負っている位の気持ちで行動し、患者さんを発見した時はこちらから先に、さわやかな挨拶ができるように心掛けています。

そうは言っても最近徐々に記憶力の衰えを感じており、挨拶されてもすぐに思い出せない事もありますので、私を街で見かけて声を掛ける時は、御自身について多少のヒントを与えていただけると有難いし、会話がスムーズに進むかと思いますのでよろしくお願いします。

私はいつも患者さん目線での診療を心掛けており、街で会った時もお高く留まるつもりは毛頭ございませんので、気軽に声を掛けていただければ幸いです。

2012年04月02日

ミコノス島

大学2年の夏、バックパッカーとしてヨーロッパを3ヶ月ほど放浪していたことがあります。横浜からロシア船籍の「フェリックス・ジェルジンスキー号」に乗り込み、2泊3日太平洋を北上、津軽海峡を通過してナホトカへ、さらにシベリア鉄道でハバロフスクまで16時間ほどの列車の旅、そこからモスクワまでアエロフロートで空路約8時間。ここで1週間の滞在後ヘルシンキ経由でストックホルムへ、そして到着後解散という、当時としては最も格安の方法でヨーロッパ入りしました。西ヨーロッパのほぼ全域をTEE(Trans European Express)という列車を使ってブラブラと、ユースホステルとペンションばかりを泊まり歩く、気ままな貧乏旅行でしたが、自分の人生にとってとても収穫の多い旅になりました。

最初の1ヶ月は日本語で考え英語に翻訳して会話をしていましたが、2か月目には英語で考え英語で話せるようになり、3ヶ月目にはかなりきわどい交渉やケンカまで英語でできるようになりました。また、ほぼ毎日のように感動的な体験をし、日々自分が変化して行くのを実感しながら過ごした3ヶ月でもありました。

どの国も、訪れたすべての国がそれぞれに印象的でしたが、中でもスペイン、イタリア、ギリシャ、スイスの4ヶ国は、また行ってみたい場所です。

こんな中、ある雑誌の特集記事に「ミコノス島」が載っていたので懐かしくなり、ちょっとだけご紹介させていただきます。「ミコノス島」はアテネの南東約100㎞にあり、ギリシャのピレウス港から船で5時間半くらいの位置にあるエーゲ海のほぼ真ん中に位置している島です。今でこそ有名になりましたが、私がこの島を訪れた、今から40年程前はここで日本人に会うことは無く、日本ではほとんど紹介されることのない島でした。私はこの島で二つの貴重な体験をしました。

その一つは、天の川(Milky Way)を生まれて初めて見たことです。例によって安宿に泊まり、毎晩のように、現地で仲良くなった連中と酒を飲みギリシャのフォークダンスをする店に入りびたっていましたが、ある晩遅く宿に帰ると自分のベッドが他の宿泊者に占領されており、クレームをつけると、こんな遅い時間に戻ってきたお前が悪いと言われ、宿の女主人からブランケットを2枚渡され宿の外に追い出されたことがありました。仕方なく狭い路地の石畳の上にブランケットを敷き、ぶつぶつ言いながら横になった時、夜空に白く輝く雲の帯のようなものが見え、目が慣れて来るに連れ、それが天の川であることに気付きました。この時の感動は今でも忘れることが出来ません。まさにMilky Wayというネーミングがぴったりの光の帯で、よく目を凝らすとそれが無数の星の集積であることに気付かされました。「おばちゃん、外に追い出してくれてありがとう!」の瞬間でした。

もう一つはヌーディストビーチです。そもそもミコノスに行くキッカケになったのは、マドリッドの宿で知り合ったドイツ人からの情報でした。彼は外交官志望の大学生で、6か国語を自由に操る男でした。仲良くなって何日か行動を共にしている中で、ヨーロッパでの彼の一押しはミコノスのヌーディストビーチだということになり、さっそくスペインからギリシャに直行することになったわけです。

当時ミコノスのヌーディストビーチは「パラダイス」と「スーパーパラダイス」の2ヶ所があり、私は昼はヌーディストビーチ、夜はダンシングバーで旅行者や現地の人達と酒を酌み交わすという毎日でした。ビーチはラグーンのようになっているため遠浅で、真っ青な空・エーゲ海ブルーの海・ゴミひとつない真っ白な砂浜にレストランが一軒だけという状況で、ビーチの客のほぼ7割くらいがオールヌード、残りがトップレスか普通の水着という感じでした。

初めは「恥ずかしくて水着を脱げなかった」のですが、しばらくこのビーチにいると、水着で体を隠している方が不自然な気がして来て、「恥ずかしいから水着を脱いだ」ことを思い出します。

実に開放的な空間で、一瞬この世の楽園に来ているような不思議な感覚に襲われたのを今でも鮮明に思い出します。

ギリシャは最近、国家財政が破綻して世界中から袋叩きにされていますが、私に言わせれば、ギリシャには今も素晴らしい世界遺産級の遺跡や自然環境がいたる所に残っており、あんなすばらしい環境の中で生活していたら、あまりあくせくと働きたくなくなるのもちょっと理解できるような気がします。

2012年01月15日

60回目の誕生日

私は2012年1月10日(火)、60回目の誕生日を迎えました。つまり、還暦ということです。毎年私の誕生日には、職員たちから朝のミーティングの際、バースデイプレゼントをいただくのが恒例となっていますが、今年は60歳ということでもあり、「赤い帽子に赤いちゃんちゃんこ」なんていうことになると大変なので、あらかじめ赤いちゃんちゃんこは自分で買うから、プレゼントしないようにと釘を刺しておきました。  

当日の朝、約束通りMONCLER「モンクレール」の真っ赤なベストを持参しましたが、みんなの前に着て出るのが照れくさくて、和泉屋セレクトのワインをプレゼントしてもらい、なんとなくお茶を濁すことにしました。しかし当院の看護婦軍団はそんなに甘くはなく、昼休みにナースステイションに呼び出され、ベスト着用の写真をまるで芸能人のように、皆から撮られまくられました。(わたなべ整形外科スタッフブログ参照)

ところで私は、平成元年に「わたなべ整形外科」を開業した際、院長として職員とどのようなスタンスで接したらいいか、いろいろ考えた末「フレンドリーな関係で行こう」と決め、数年やってみました。しかしこれは、組織が徐々に拡大して行く過程で、院長としての行動が規制されることとなり、その後はちょっと軌道修正し、「厳しいけれど、とっても優しい先生」を目指して今日に至っています。そして今私が一番心掛けているのは、常に職員から尊敬されるような存在であり続けるということです。 

仕事の時は、かなりきついことも、遠慮なくストレートに伝えるようにしていますが、信頼関係があり、尊敬される存在であれば職員は素直に聞いてくれるのではと期待しています。

そのためにも私は患者さんの診察をしている時、いつも背中で職員へのメッセージを送り続けています。敬語の使い方に始まり、患者さんの年齢、性別、職業、インテリジェンスのレベルなどに応じた当意即妙な対応。疲れていても決して手を抜かず、常に笑顔を絶やさず、真剣になって患者さん一人一人の訴えを聞き、さまざまな病気について、丁寧で分かりやすい言葉を用いてはっきり説明する姿を見せることが一番の教育であり、私の医療に対する思いを伝えることになるものと考えています。

1月12日(木)に職員とMRさん達が開いてくれた盛大な、そして心温まるバースデイパーティーと、みんなからの寄せ書きを読んでいて、これからも今のスタンスで一人一人と接して行こうと思いました。

こんな私は還暦を迎えた他の仲間たちと比べ、多少若く見えるのかも知れませんが、これからも自分で設定した125歳のゴールに向けて、人生を大いに楽しみながら、自分のペースで年齢を重ねて行こうと考えています。 

2011年12月15日

TAKE IVY

最近あるメンズショップで、初版が昭和40年という懐かしい本を見かけ、アマゾンでその復刻版を取り寄せました。それは「TAKE IVY」という本で、私が大学へ入学した年の春、ある本屋さんで偶然見つけ、購入したものでしたが、以来私の学生時代のバイブルとして、何回も何回も読み返し、当時の自分のライフスタイルに強い影響を与え続けた本でした。

「アイビー・リーグ」と呼ばれるアメリカ東部の名門8大学(ハーバード、エール、プリンストン、ペンシルバニア、コロンビア、ダートマス、ブラウン、コーネル)を訪ね、アイビー・リーガースと呼ばれる学生たちの学園生活を取材した内容になっています。

この本を読んで以来、私の服装はアイビーファッションに変化しましたが、一番変わったのはそのライフスタイルだったかなと思います。「健全な精神は健全な身体に宿る」というギリシャ以来の考え方と「良く学び、良く遊べ」というアメリカ式の合理主義が、見事に調和したキャンパスライフがここには描かれてありました。

彼らアイビー・リーガース達が目指しているのは、一緒にいるとどことなく楽しい、社交性に富んだ人間。男同士でいる時はガンガン酒を飲み、女性には聞かせられないような話もするし、思い切ったバカ騒ぎもする。しかし女性といる時は完璧な紳士で、洗練されたマナーを身につけ、様々なジャンルの音楽や本の話題も豊富な教養人。ジルバもツイストもワルツも、一通りのダンスは踊れるし、乗馬もヨットもテニスもゴルフも上手にこなす、いい意味でのオールラウンドプレイヤー。

ウィークデイは朝から晩まで勉強や部活に追いまくられ、ほとんど遊ぶ時間はないので、ラフな服装で過ごしますが、週末の夜のパーティータイムになると、タキシードにドレスアップして出かけ、思いっきり楽しむ。何しろ切り替えがとてもスマートです。

この本に出会ってから私は個人的に、プレイボーイの定義をこれまでの 「女ったらしの遊び人」から、上記のように変更し、これを目指して学生時代を存分にエンジョイしたことを、今懐かしく思い出します。残念ながらヨットだけはチャンスがなくて、ものに出来ませんでしたが、他は大体、学生時代に一通り達成できたかなと自己中的に自画自賛しています。

最近少しイタリア系に傾きつつある自分のライフスタイルですが、やはりその原点は「TAKE IVY」にあることを、この本を読み返しながら自省を込めて実感しました。

2011年11月21日

あと何回?

最近、テニスやスカッシュをしている時、いつまでこんなに元気にコートを走り回って、ボールを追いかけることが出来るのかな?こんなに楽しく、いい汗をかくことが出来るのは、あと何回位かなあと考えることがある。ケガをしたり病気をしたりすれば、いきなりできなくなる。

一応、自分の人生125年をゴールに設定して人生設計をしているが、宇宙の営みから比べるとあまりにも短い。この短い人生を如何に充実させ、楽しむか。もうすぐ還暦を迎える私としては、大きな課題となりつつある。
 
今の仕事は、わりと安易に決めた割には結構気に入っている。遣り甲斐もある。しかし如何せん自由に使える時間が少な過ぎる。この限られた少ない時間を如何に使い切るか、これからは今まで以上に真剣に考えなければいけないと思う。

お気に入りの場所で食事をしていて、この店にはあと何回来られるかなあと思う。時間があっても、自分の体調がすぐれなければ食べには行けない。自分がOKでも、お店が無くなってしまったり、シェフが変わって味が落ちてしまうこともある。食事を、おいしく、ある感動をもっていただけるというのは、さまざまな条件が見事にマッチした時にのみ得られる、貴重な瞬間であると思う。そういった場面に遭遇した時は、時間の進行を極力遅くして、その幸せを存分に味わいたいものである。 

学生時代ヨーロッパを3ヶ月ほど、バックパッカーで旅した時、毎日が楽しくて楽しくて、そこで過ごす一分一秒がとても貴重なものに感じられた。この時自分の中から自然に出てきたフレーズが、「瞬間瞬間が人生、そんな生き方をしたい。」というものだった。以来、こんな生き方が出来たらいいなと、夢中で突っ走ってきたが、最近、死というゴールを身近に感じるようになり、自分がそこに向かって全速力で走っているような気がして、ちょっと複雑な心境である。

こんな中、「SLOW LIFE」もいいなあと思うようになって来た。大橋巨泉のごとく、まだ元気なうちにセミリタイアし、この美しい地球のさまざまな地域に、それぞれのトップシーズンを追って、渡り鳥のように移り住むというのには本当に憧れる。ついでに自分の飲み仲間たちも一緒に移動してくれると、さらに楽しさが倍増すると思うが、これはなかなか難しそうである。それぞれの土地で仲間を見つけることになると思う。

何はともあれ、世界人口は70億人に達したというのに、それぞれに与えられた短い人生の中で出会える人の数はたかが知れている。その少ない出会いの中で、気の合う仲間というフィルターにかけると、実際に付き合う人の数はさらに少なくなってしまう。最近は、こういう貴重な仲間たちと、あと何回飲み会ができるだろうかと考えてしまう。

自分はお酒大好き人間ではないので、自宅で晩酌はしない。お酒の代わりに牛乳飲みながら食事をしていることも多々ある。ホステスバーも苦手なので、たいてい男仲間たちと熱い議論を交わしながら、美味しい料理と美味しい酒(古酒以外はどんなジャンルもこなす)、これさえあれば充実した一日のエンディングとして申し分ない。

2011年10月21日

三遊亭歌橘と北見翼

今夜は偶然、三遊亭歌橘君と北見翼君に「いちえ」 というお寿司屋さんで会いました。ココは私の一番のお気に入りの店で、足利で寿司を食べる時はほとんどこの店に決めています。

「すきやばし次郎」や「銀座 久兵衛」に引けを取らぬほどのネタを使っているのに、東京の寿司屋に比べると驚くほどの安さです。店のオーナーの菊地さんは、三中のハンドボール部の一年先輩で、もう随分長い付き合いになりました。

今日は北海道厚岸の西、
「仙鳳趾」産の生牡蠣をいただきましたが、おそらく日本で採れる一番おいしい生牡蠣だろうと思います。

ところで歌橘君は、飲み仲間の息子さんという事もあり、まだ真打になる前から、当院の忘年会で芸を披露してもらったりのお付き合いですが、この所急速に落語のレベルが上達したなあと感じています。北見翼君は以前、「DaVA」のクリスマスパーティーの余興で手品を見せてくれたマジシャンですが、この二人は最近たびたび足利市内のイベントで登場しているので、ご存知の方も多いのではないかと思います。

足利を元気にしよう!というイベントにも積極的に参加してくれており、これからも応援してあげたい二人です。

 

途中から歌橘君のお父さん(恩田さん)も加わり、賑やかな食事会になりました。