日本人として、国際人として

2020年06月14日

沈みゆく日本

 今年2020年という年は、日本そして世界が新型のコロナウィルスCOVID-19に遭遇した極めてエポックメイキングな年となりました。パンデミックという意味では世界人口の1/4、およそ5億人が感染し5000万人近くが死亡したといわれる1918年のスペイン風邪以来、そして経済的な影響という意味では2008年のリーマンショックを上回り1929年の世界大恐慌以来の、全世界を巻き込んだ大惨事と言えるかと思います。こんな中、世界各国のCOVID-19対策に対する評価が徐々に定まって来ました。国の指導者として、今回の一連の国難に対峙し自国民の生命・財産を守る為、毅然とした態度で指導力を発揮し、どのような対策を講じ結果を出して来たかが今問われようとしています。しかしながら世界の首脳たちは概ねその評価を上げ、支持率も急上昇という中、我が国だけがとても残念な状況となっております。このパンデミックの襲来に対して明確な司令塔を設置せず、国立感染症研究所が中心メンバーの、いわゆる専門家会議なる組織に責任転嫁しながら「too little,too late」の対応に終始し、PCR検査の実施に対しては強い制限を掛け、意味不明のマスク配布で血税を無駄遣い。遅きに逸して発令された緊急事態宣言はあくまでも要請レベルであり、諸外国のような強制や禁止を伴うものではなく、結果として個人や企業に対する補償を伴わないという中途半端なものでした。最近になって漸く補償の問題が動き出しましたが、掛け声ばかりでとても満足の行くようなレベルのものではありません。それどころか最近首相のお友達の会社では、コロナ特需といった現象が起こっております。コロナで追い詰められ困窮する国民への給付金が途中でピンハネされたり、マスク関連で血税が怪しげな会社に注ぎ込まれ浪費されたりと、まさに火事場泥棒的な動きで利益を得るという有様です。
国家の一大事というこの時期、常識を疑うような不祥事が次々に発生しておりますが、2014年に1000兆円を超えた日本の借金は毎年約20兆円ずつ増加しており、情報公開を拒否しながらジャブジャブと血税を無駄遣いしている余裕はないと思います。こんな中、国のかじ取りを国民から託さ、れた方達からは全く危機感、緊張感が感じられず、能天気な行動ばかりが目立つのは、ある意味国家としての末期症状と考えるべきなのでしょうか。
                

2018年08月15日

頭のいい人悪い人

以前から気になっていたことですが、日本人は割と安易に「あの人は頭がいいとか、悪いとか」他人を評価してカテゴリー分けしているような気がしますが、主にその判断の根拠としているのは学歴のようです。とりあえず東大、京大、早稲田、慶応その他各大学、そして各医学部など偏差値の高い大学、学部に合格した人を頭がいい人と定義している節があります。

しかし私に言わせれば、たかが学歴で頭がいい悪いなどと判断するのは愚の骨頂。日本の大学受験で試されているのは物事を思考する能力ではなく、ただ単に暗記力の優劣であり、設問に対して誰かが決めた唯一絶対的な正解?を反射的に吐き出す能力であると私は考えています。この合格した人達の中には 稀に本当に優秀な人間も混じっていますが、大半は単に受験テクニックに長けているだけの人達だと思います。

まったく同じ知能を持った人であれば、生まれ育った場所が大都市か地方都市かで合格出来る大学は大きく変わって来ます。受験実績のある予備校や豊富な受験関連の書籍が簡単に手に入る書店、受験生のモチベイションをあげる為の様々なイベント等々、都会には受験テクニックを向上させる為の選択肢がゴロゴロ転がっています。  

こうして本当は優秀でない人、単に受験テクニックに長けただけの人間が大量に偏差値の高い大学に入学してこの国の舵取りをすることになっています。我が国の長引く経済政策の失敗は単にT大学法学部を卒業しただけの人間が経済政策を担当しているからだと、以前は単純に考えていましたが、最近は少し違うなと思うようになりました。そもそも仮に経済学部を卒業した人間であれば上手に経済政策の舵取りが出来るのでしょうか?

物事はそれ程単純ではなく、日本という国のプレゼンスがここ十数年に亘り様々な分野で急速に落ち込んでいる根本的な原因は、本当に優秀で国際的な広い視野を持った大前研一氏のような人間、国際舞台で普通に英語でディベートが出来る人間が、この国を導くポジションに就いていないからだと私は考えています。  

では本当に優秀な、いわゆる頭のいい人とは一体どんな人だと思いますか?

私は、雑多な情報を戦略的に整理して、説得力を持って伝える能力を備えた、教養のある人だと思います。因みに教養人とは、単に偏った専門知識が豊富な知識人ではなく、多様な文化や歴史についての見識も豊富で、5年、10年先まで見通すことの出来る透察力を持ったリベラルな人だと思います。こういうまともな人間、国際社会でも高く評価される人間を育てる為には、以前から欧米で教育の基本として採用されている「リベラルアーツ」の考え方を、もっともっと教育現場に浸透させ「ARTSPORTSTUDY」の三拍子揃った人材育成を進めることだと考えます。

偏った専門知識だけで国際的な見識の無い、海外の高官の家で催されるホームパーティーに招待されても、気の利いたジョークの一つも発することが出来ず、存在感の無い壁の花、ユーモアのセンスもARTの素養も無い、極めて人間としての魅力に乏しい若手官僚たちが各省庁から選抜され、国費で海外研修に出て行く現状は、税金の無駄使いだと考えています。更に困るのは海外留学中、政府高官のホームパーティーに招かれたことがあると自慢し、石原慎太郎氏言う所の「yellow banana 」となって日本の国益を損なう情報のリークを日常的に行っていることであります。 

2017年05月13日

正論・民意

日本では自分の考えを人前でストレートに発言しないことが美徳であり、謙虚で奥ゆかしいと評価される文化がある様な気がします。この流れの中で、会議中意見を求められて何も発言せず、異議なしであるかのような態度を取っておきながら、会議終了後仲間とひそひそ、会議をリードしていた人や決定された内容について批判し、自分は常識を持ったリベラリストであるかのような行動をとる人がいます。こういう人達は欧米人から見るとアンフェアであるとみなされ、いつも直球勝負で生きている私が結構苦手にしているタイプです。幼い頃から教育の一環としてディベートやディスカッションで鍛えられ、集団の中で自分の考えをはっきり発言するように育てられて来た彼らからすると、公の場で意見を求められてもあまり発言しない日本人に対してはかなりの違和感を覚えているのではないでしょうか。

さて世の中には勇気を持って公共の利益の為に正論を主張する人がいます。しかし彼らは損得勘定で行動する利権がらみの勢力の前では無力であり、たとえ正論であってもそれをあまり強く主張すると、いたずらに敵を増やし社会的な立場までもが危うくなることもあります。こうして物知り顔の、いわゆる「オトナ達」は口を噤んでつぐんで世渡り上手な対応をし、負の遺産を後世に遺すことになります。本来であればマスメディアがこれら正論を取り上げ、検証・評価し、広く市民に知らしめる役割を担うはずなのですが、オピニオンリーダーとしての気概や誇りを持たず、忖度優先で様々なタブーに支配された彼らに、現時点では何も期待することは出来ません。

最近頻繁に、民意と言う言葉を聞くようになりました。様々な政策決定そしてそれを実行する際、民意と言う便利な言葉を用いて、皆が同意したのだからと半ば強引に事を進める場面を見せられるたび私は強い違和感と不快感を覚えます。メリット・デメリットを公平に両論併記した正しい情報提供は成されたのか?市民は本当にそれを望んでいるのか?決定するプロセスは公開の場で、映像や書類などで記録を残しながら、 賛成派・反対派の主張を平等に取り上げたのか?議会で言えば賛成した議員、反対した議員の名前とその主張は広報で公開すべきかと考えます。

税金が無駄に使われたり、国家財産が政治家の絡みで忖度され、不当に処理されたりする今の我が国の状況は本当に発展途上国並であり恥ずかしい限りです。卑しくも日本が先進国を名乗りたいのであれば、フランスのように会計検査院の権限をもっと強化し、政治家や他の省庁から完全に独立した組織としてすべての不正を許さず、最終的には会計検査院が厳しくチェックし処罰するという形にすることが必要であると考えます。投票率が最低を更新する中、歴史観を持たぬ利権絡みの一部有権者の意見を以って民意と言うなら、大衆社会における民意などあまり意味のないものとなるでしょう。アメリカでは世襲議員が5%と言われる中、自民党においては40%を越えるジュニア議員達が国会を埋め尽くしておりますが、有権者はもう少し真剣に、日本の未来を託すに足る人物を選ぶべきではないかと考えます。    2017.5.13

2017年02月20日

日本語の不思議

最近日本語という言語の持つ危うさにしばし考えさせられることがあります。先日亡くなられた野坂昭如氏は、援助交際する少女のことを「個人営業の売春婦」と喝破していましたが、低俗なマスコミ諸氏が本当は由々しき社会問題を、ともすれば美化するような言葉で飾り立て、少女達を安易な売春行為に走らせる昨今の風潮にはかなり違和感を覚えます。

学生時代から相当な悪で、さまざまな人に精神的・肉体的ダメージを与え補導歴もあるような、いわゆる不良でチンピラだった男が、もちろん本人の努力もあったことは認めますが、様々な幸運を得て社会的に成功すると、大半の日本人はこの人物の過去の悪行を「ヤンチャ」という一言で片づけ、まるで免罪符のように許し、むしろ美化するような風潮があることにも違和感を覚えます。社会的に認められ、それなりの評価をされるようになった場合、若い頃悪だった人の方が、真面目に生きて来た人よりも何だか味があってカッコいいと評価する風潮はとりわけ芸能界では顕著な気がします。

いずれにせよ、幼い頃(どう考えても小学生位まで)の罪のないイタズラと中学生以降の他人を傷つける犯罪的な行為はハッキリと区別して、ヤンチャという言葉で一括りにするのはやめて欲しいものです。 

さて一般的に外国人にとって日本語は習得するのが難しいという事になっておりますが、私は個人的にはこの意見に懐疑的です。日本語は基本的に母音が多く発音し易く出来ており、またイントネイションやアクセントの位置を決定的に間違えても意味が通じてしまいますが、英語やフランス語ではこうは行きません。要するに日本語というのは単語を羅列するだけで、何とか日常会話レベルは大抵間に合ってしまうのです。

ただし言葉の持つ深い意味や微妙なニュアンスまで正確に伝えたいということになるとその難易度は一気に上がります。一つの単語に様々な意味を持たせたり、同じ事象に対して何通りもの違った表現をすることの出来る日本語は、難しい言語というよりは味わい深く豊かな表現力を持った言語と言えるでしょう。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字を駆使し、これ程までに完成された奥の深い、絶妙な表現力を持った言語を私は日本語以外知りません。我々日本人は、先人達から継承したこの言語を更に磨き上げ、時代の流れの中で巧みに適合させながら、世界に冠たる言語としての地位を確立し、誇りを持って美しい日本語を流暢に使いこなせるようになりたいものです。

外国人と交流する時は英語、ゆるく心豊かな時間を過ごしたい時は日本語という風に、状況によってさりげなく使い分けることが出来たら素敵だなあと考えています。

2015年11月14日

情報公開について

私はどうしても止む負えぬ家庭の事情で1年に1~2度飛行機に乗りますが、搭乗するたび今度こそ墜落して命を落とすのではないかという予感がします。率直な話、あんな大勢の乗客と大量の荷物を搭載した物体が空を飛ぶという不自然さを考えただけで空恐ろしい限りです。飛行中CA達はことさらに平静を装い、「これから多少気流の悪いエリアを通過しますので、シートベルトをお締め下さい。」などと言い放つことがありますが、これまで何回か生きた心地のしない経験をし、これで終わりかなと思ったこともあります。

こんな中、いつも考える事があります。それは情報公開という事です。フライトを選択する際、搭乗予約を確定する前に、勤務するパイロットや搭乗予定の飛行機に関する詳細な情報が入手出来るとしたら、多少割高になったとしても、よりリスクの低いものを選びたいと心底思います。しかしこのささやかな願いが叶えられることはなく、これらの詳細な情報が開示されるのはいつも墜落して多くの犠牲者が出た後です。パイロットに自殺願望があったり、機体が何回も事故を起こしたことのあるポンコツで、搭乗員の間では出来れば乗りたくないと思われている飛行機に乗せられるかも知れないのに、これらの情報は一般人には一切公開されない仕組みになっています。

日本では様々な場面で真実の情報が公開されていないもどかしさを感じることが多いです。2011.3.11の東日本大震災に続いて起きた福島第一原発事故は、ここに来てようやく人災である側面があぶり出されて来ていますが、まだまだ真実の情報不足でその真相究明には程遠い感じがします。

こんな中、安倍首相はオリンピック誘致のプレゼンの際、放射能は完全にコントロールされていると大嘘をついていましたが、現実には放射能は今尚拡散を続けており、終息のめどは全く立っていません。大気・地下水・土壌・海水の放射能汚染の実態はほとんど正確には公表されず、福島で甲状腺がんに罹る子供たちが増加しているという事実や、農作物や魚介類の汚染実態の公表など、政府はこれからも真実の公表を控え、ひたすら安全安全と報道することで、原発事故そして放射能汚染の矮小化・過少化に努める方針のようです。

とても寂しい話ですが海外メディアやアメリカ政府の報道からようやく事実を知らされるという事が最近よくあります。いずれにせよ、このままのペースで放射能汚染の範囲が広がって行くと、東日本での居住が困難となる日もそう遠くはないような気がします。

ここは政府も偽りの安全宣言ばかり出していないで、真実の情報を公開し、日本国の英知、そして不足であれば世界中の専門家を国費で招聘し意見を聞き、本気で放射能汚染の封じ込めに当たってもらいたいものです。 

東京オリンピックが、その準備の段階で大きく揺れています。

メインスタジアムとなるべき新国立競技場の建設問題に端を発し、最近ではロゴマークの盗作疑惑まで吹き出す始末。この先一体どうなってしまうのか心配です。これら一連の騒動を通じ、ちょっと気になるのは、相も変わらず責任の所在がうやむやにされているという事です。誰も責任を取らず、トカゲのしっぽ切りで事態の収拾を図ろうとする関係者たちの厚顔無恥な態度には吐き気すら覚えます。

新渡戸稲造が世界に発信した「武士道精神」は一体どこへ消えてしまったのか。オリンピック組織委員会の会長を務める森氏などの世代は、その幼少期の教育を通じ、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠など多くの日本人の行動基準、そして日本の道徳の中核として機能して来た武士道精神を徹底的に叩き込まれており、「名誉」と「恥」の意識は今の若者達より数倍研ぎ澄まされているはずなのに、一連の騒動に際し彼の口から出て来るコメントは恐るべき責任転嫁の連発であり、卑怯で恥知らずと言われても何ら弁解の余地はないと思われます。

是が非でもオリンピックを日本に誘致したい余り、実現不可能な空手形を連発し、何の根拠もなしに福島原発の汚染水処理は完璧であると言い放つ安倍首相の自信に満ちたIOC総会でのスピーチにも、ただ呆れるばかりです。

また、ロゴマークの盗作疑惑についても、もし万が一その製作のプロセスに不正がなかったとしても、結果として出来上がった作品が酷似したものであるならば、やはり3年前からベルギーのリエージュ劇場で使用されているロゴに敬意を表し、潔く撤回すべきものと考えます。

さらにオリンピックの開催日が7月24日の開会式から8月9日の閉会式までとなった経緯にも大きな疑問が付きまといます。欧米のプロスポーツ日程を優先し、35℃を超える猛暑日が続く中、世界の超一流アスリートたちの健康被害あるいは参加辞退が相次ぐなどという状況を避ける意味でも、この時期の開催はかなり無謀であると考えます。

こんな中、岩手、宮城、福島の3県では、今なお8万人近くの方々が仮設住宅暮らしを強いられています。物事の優先順位から言って、福島原発の汚染水処理とその原発廃炉に向けた作業工程の迅速化、そして今なお避難されている多くの住民の方々に一日も早く平和な日常が訪れるように復興支援することが最優先事項であり、オリンピック施設建設の為、復興プロセスに遅れが出るなど断固許されない事と考えます。  

2015年04月30日

格差社会

フリードマンらの提唱した「市場原理主義」の浸透と共に、我が国でも貧富の差が拡大し、昨年逝去された宇沢弘文先生の心配されていた格差社会がいよいよ日本でも現実のものとなって来ました。世界でも稀な、平和で豊か、そして極めて社会主義的な平等を実現し、一億総中流と言われた日本でしたが、最近これもついに崩れ始めたなと感じております。

極端な格差社会は米国で既に進行中であり、企業トップ達の得る法外な報酬は我々の想像をはるかに超え、企業によってはCEO(最高経営責任者)と一般従業員で500倍前後の格差が存在するところもあります。これに加えて問題なのは米国では中流階級が崩壊しつつあり、ケガや病気、失業や倒産などを契機に自己破産して貧困層、そしてホームレスへと転落するというシビアな現実があります。

こんな中、今年1月下旬に来日したフランスの経済学者トマ・ピケティ氏は、その著書「21世紀の資本」を通じ、世界的に拡大しつつある格差社会の問題点を鋭く指摘し、警鐘を鳴らしています。たしかに彼の膨大なデータに基づく科学的な検証は傾聴に値し説得力もありますが、その主張を全面的に受け入れ実行するには少し違和感を覚えます。とりわけ富裕層へのこれまで以上の課税強化と相続税率のアップは、頑張った人とそうではなかった人にあまり差が出ないような社会構造になる危険性を有しており、猛烈に努力して成功し豊かな暮らしがしたいという若者が減り、社会の活力が削がれることにならないか心配です。

ここで少し興味深いのは、日本の大企業の役員達の報酬レベルが欧米、特に米国に比べ極端に低いということです。社会の上位1%の人達が富の大半を握ってしまう米国において格差社会が進行するのはとても理解し易いのですが、社長達の報酬があまり高くない日本においても格差が開きつつある原因はどこにあるのか、様々な分析が為されているようです。私は政府の政策誘導により非正規労働者が急増している事、大企業が内部留保を莫大に抱え込み(資本金10億円以上の大企業の内部留保はついに285兆円を超えました)、一般社員の待遇改善や下請け企業からの納入価を引き上げるなどの、利益の正当な分配が成されていないことが大きな原因となっているような気がします。

こうした状況の中、以前訪問したインドネシアのバリ島とフィリピンのセブ島の島民たちの暮らしぶりが突然思い出されました。同じように貧しい環境の中で生活している人達ですが、市中に笑顔あふれるバリと、スラム街や暗い表情の人が目立つセブ。この違いはどこから来るのか、とても興味をそそられます。そして、バリでも大変な格差社会が厳然と存在するにも拘わらずピケティが指摘するような問題はあまり目立たず、人々がそれぞれの身分、職域の中で精神的にとても豊かな暮らしを営んでいる様には頭が下がり、多くの事を教えられた気がします。

2013年03月31日

英国留学

324日(日)、中1の末っ子が成田から英国に向けて旅立ちました。8月末までは準備校、その後9月にボーディングスクール入学となります。順調に行くと今後最低でも56年は英国で過ごす事になり、わが家は一気に寂しくなってしまいました。以前から英国の教育システムには一目置いていたのですが、まさか自分の息子が英国で教育を受けることになるとは予想もしていませんでした。

日本を再生させるためには、まず教育制度をドラスティックに変える必要があると言われて久しいのですが、戦後まもなく70年近く経とうとする今になっても、GHQの命を受け作成された教育基本法は、残念ながらほとんど変わっていません。 

世界の先進国を見ると、まず間違いなく、国家として本気で教育問題に取り組み、多くの予算を割いて国家の明日を担う若者たちを育成していますが、学校教育費を対GDP比で見ると、トップのアイスランドに比べて日本はその半分以下、と断トツの最下位であり、教育に対する支出が世界的に見て如何に低いかが分かります。

こんな中、息子に英国で教育を受けさせようと決意させるにはいくつかの理由がありましたが、一番の理由はその教育システムの素晴らしさでした。

生徒たちは、学力の進達度に応じて少人数のグループに分けられ、グループごとに指導を担当する教師の部屋を訪れ、そこで授業を受けます。日本のように教師が生徒たちの待つ教室に来るのではなく、生徒が先生の教室に行くわけです。数学の試験なども、その思考過程を重視し、途中まで正しければケアレスミスで最後の答えが間違っていても、かなり高く評価されます。教育の基本はARTSPORT STUDYであり、この3つのバランスがとれた学生を育てることを目指しているようです。また漫画、ゲーム、インターネット、etcに関して、青少年の心身の健全な発育上ベストと思われるルールをはっきりと校則化し、これを毅然として実行する学校の姿勢には共感できる部分が多くありました。広大な敷地と恵まれた施設の中で寮生活を送る生徒達。教師たちも大半が家族やペットと共に同じ敷地内に居住し、熱い情熱と高いプライドを持って子供達の教育に専念しています。

こんな恵まれた環境の中、自分の息子が「話すことは学ぶこと」という英国の教育方針の下、説得力を持って論理的かつ紳士的にディベートする能力を身に付けて帰って来てくれたらなあと夢想して淋しさを紛らわせる今日この頃です。

2012年09月13日

看板について

学生時代、バックパッカーとしてヨーロッパを3ヶ月ほど貧乏旅行した時、たまたまモスクワに1週間ほど滞在したことがあります。その時一番新鮮に感じたのは、商業看板が全くない為、街が異常なまでにシンプルにスッキリと見えたことです。

商業看板がないと街はこれ程までに美しく変身するものかと感心しましたが、西欧圏に移動してからもそれぞれの街ごとに独自の基準が設けられており、街全体の景観を乱さないようにという配慮が随所に感じられ、特にイタリアのフィレンツェ、ベルギーのブルージュ、ドイツのローテンブルグなどはその完成型かと思わせる美しさでした。

ヨーロッパのすべての都市を見て来たわけではありませんが、今でもかつて自分が訪れた欧州諸都市のリアルタイムな映像に接すると、40年前の懐かしい風景がそのまま展開しており、おそらく今回のユーロ経済危機もサラリと乗り越え、50年、100年後に彼の地を訪れる観光客たちに、今と変わらぬ美しい姿を見せてくれる事と想像されます。

こんな中、日本の街並みはどうでしょうか? かつて江戸の町は、旧帝国ホテルを設計したアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトら多くの欧米人から、これほど瀟洒な街並みは見たことがないと、最大級の賛辞を送られていました。これは1865年来日したイギリス人写真家フェリックス・ベアトによって撮影された江戸の写真を見れば一目瞭然です。

しかし1923年の関東大震災や1944年から2年間106回に及ぶ米軍による東京無差別大空襲などの結果、かつての面影は完全に消え失せ、その後明確な都市計画もないままに、現在のような奇妙な街並みになっています。100年のスパンで都市計画を考えるフランスは別格としても、東京の景観が欧州諸都市と比べてかなり見劣りしてしまうのは否定できません。

はっきり言って日本中いたる所、センスの悪い看板と大量の電気を浪費する自販機が野放図に設置され、計画性のない街の景観を更に悪化させていると感じています。

ところで患者さんが病院を選ぶ際、看板を見て決めているとは考えにくいのですが、街中にあふれるおびただしい数の医療機関の看板は、どう解釈したらいいのか理解に苦しみます。

こんな中、我々「わたなべ整形外科」では電柱広告も含め、看板は一本も設置しておりません。
 
そんな無駄な宣伝広告費を使う位なら、職員の待遇を少しでも良くしてあげた方が、皆のやる気も出て、はるかに経営的なメリットも大きいのではないかと考えているからです。

札幌で過ごした学生時代、当時まだ全盛だったフレンチのレストランでコース料理を頼むことになった時、恥をかかないようにと、あらかじめ「カッパブックス」で「テーブルマナー」という本を買ったことがあります。帝国ホテル料理長の村上さんが書いたものでしたが、今でも印象に残っているのは、一通り基本的なマナーの説明が終わった後、彼が最後の方で語っていた、「一番大切なことは、マナーにとらわれず、せっかく出てきた料理を心から楽しんで、美味しく、食べること。そしてその際、同席者およびその周囲のテーブルのお客様に迷惑を掛けないように振る舞うこと。」という部分でした。

今、この年齢になって、レストランで食事をする機会も以前より大分増えましたが、いつも心掛けているのは、食事そして同席者との会話を大いに楽しむこと、店のスタッフを巻き込んでジョークを飛ばし、彼らから最高のサービスを引き出すことです。また更に、テーブルマナーを熟知した上で、敢えてちょっとだけマナー破りをすることが出来たらカッコいいなと思っています。

さて今から、タイのプーケット島の「クラブメッド」というリゾートクラブに、夏休みを利用して家族で出かけた際のエピソードをお話しようと思います。

「All inclusive」といって、朝、昼、夜の食事やスポーツ施設の利用がすべて含まれている料金設定で、朝食以外は赤・白・ロゼ、すべてのワインが飲み放題のプランでした。その施設に滞在した時の事です。

食事はすべてブッフェスタイルで、好きなものを好きなだけ、セルフで取って来て自分のテーブルで食べることになっていました。この時、日本人観光客の大半は、大きなプレートに山盛り、サラダから肉まで、まるでワンプレートランチのように載せてきて、しかも食べ切れずに大量に残してしまうという食べ方でした。

その時、同じフロアにいたフランス人のグループをウォッチングしていて、私はシビレました。彼らはまず最初にオードブルをピックアップして来て、ワインを飲み交わしながら30分程会話を楽しみ、そのあとスープ(またはパスタ)、魚料理、肉料理、サラダ、チーズといった具合に、一皿ずつ食べられる分だけ持って来て、ゆっくり会話を楽しみながら平らげて行きます。そして食べ終わった後のお皿は感心するほどキレイでした。ニコニコと、現地のタイ人スタッフ達との会話も楽しみながら、料理を残さず平らげる彼らと、食べ切れず大量に残し、テーブルを散々汚したまま、そそくさと、あいさつもせずに立ち去って行く日本人と、両者をウォッチングしていてイロイロ考えさせられました。いくら生活習慣の違いがあるとはいえ、国際社会の中での日本人の立ち位置を考えた時、この体験は私の子供たちにもいい勉強になったのではと思っています。

これからもさまざまな場面でテーブルマナーが求められることがありますが、マナーを熟知した上で、敢えてマナーにとらわれず、楽しい時間を過ごしたいと思います。