キャサリン(カスリーン)台風
昭和22(1947)年9月15日夜、前日から降り続くキャサリン台風による大雨のため、足利市内の数ヶ所で堤防の決壊が起こった。
当時私の父の住んでいた実家は岩井地区の土手近くに立地していた為、堤防決壊の影響をもろに受け、併設されていた大きな工場と共に洪水で流されたと聞いている。
停電下の夜、濁流に呑み込まれ翻弄され、無我夢中で近所の鉄工所の鉄柱にしがみつき夜が明けるのを待った当時22歳の父は、そこで生き延びたことを知った時、家族は全滅したと直感し、絶望のあまり今後は四国に渡ってお遍路さんになり、家族の霊を弔って過ごそうと決意したと聞いている。しかしその直後、ただ1人生き残った8歳違いの弟の「あんちゃーん」と自分を呼ぶ声にハッとして我に帰り、この弟のためにも自分は強く生きねばならぬと考えを改めたそうだ。
それまでの裕福な暮らしは一夜にして激変し、無一文となり、乞食のような生活をしながらもこころざし高く、渡辺家の再興を目指してシャカリキになって朝から晩まで身を粉にして働いていた時、家富町の大きな鉄工所の長女だった母が、真教寺の和尚の媒酌で嫁いで来た。昭和25年2月に私の兄が生まれているので、まさにどん底の時代、あばら家同然の粗末な家に住む父の所に嫁いで来た母の決意は相当のものがあったであろうと推測される。
足利は今でこそ自然災害の極めて少ない、全国的に見てもトップランキングされる安全な町として高く評価されているが、当時は台風被害が毎年のように発生する危険な場所だったようだ。
先日9月15日、家族で岩井町の土手の上にある台風の慰霊碑を訪れ、花を手向けて来ましたが、亡くなられた多くの方々の名簿の中に4人の親族の名が刻まれている事を確認し、また掲示されていたこの台風に関する貴重な資料を改めてしっかりと読ませていただき、尋常ならぬ被害の大きさに圧倒され、いたたまれぬ気持になりました。
頻繁に流れて来る、日本各地の自然災害に関するニュースに触れるたび、他人事とは思えず胸が傷みますが、本当に申し訳ないとは思いつつも、足利に住む幸せを感じる時でもあります。
多くの犠牲を払い、治水事業が完成し、我々は安心安全な生活を謳歌しておりますが、一年に一度位はこの慰霊碑にお参りし、祖先の霊を弔いたいと思います。