Private Life

昭和22(1947)年9月15日夜、前日から降り続くキャサリン台風による大雨のため、足利市内の数ヶ所で堤防の決壊が起こった。

当時私の父の住んでいた実家は岩井地区の土手近くに立地していた為、堤防決壊の影響をもろに受け、併設されていた大きな工場と共に洪水で流されたと聞いている。

停電下の夜、濁流に呑み込まれ翻弄され、無我夢中で近所の鉄工所の鉄柱にしがみつき夜が明けるのを待った当時22歳の父は、そこで生き延びたことを知った時、家族は全滅したと直感し、絶望のあまり今後は四国に渡ってお遍路さんになり、家族の霊を弔って過ごそうと決意したと聞いている。しかしその直後、ただ1人生き残った8歳違いの弟の「あんちゃーん」と自分を呼ぶ声にハッとして我に帰り、この弟のためにも自分は強く生きねばならぬと考えを改めたそうだ。

それまでの裕福な暮らしは一夜にして激変し、無一文となり、乞食のような生活をしながらもこころざし高く、渡辺家の再興を目指してシャカリキになって朝から晩まで身を粉にして働いていた時、家富町の大きな鉄工所の長女だった母が、真教寺の和尚の媒酌で嫁いで来た。昭和25年2月に私の兄が生まれているので、まさにどん底の時代、あばら家同然の粗末な家に住む父の所に嫁いで来た母の決意は相当のものがあったであろうと推測される。

足利は今でこそ自然災害の極めて少ない、全国的に見てもトップランキングされる安全な町として高く評価されているが、当時は台風被害が毎年のように発生する危険な場所だったようだ。

先日9月15日、家族で岩井町の土手の上にある台風の慰霊碑を訪れ、花を手向けて来ましたが、亡くなられた多くの方々の名簿の中に4人の親族の名が刻まれている事を確認し、また掲示されていたこの台風に関する貴重な資料を改めてしっかりと読ませていただき、尋常ならぬ被害の大きさに圧倒され、いたたまれぬ気持になりました。

頻繁に流れて来る、日本各地の自然災害に関するニュースに触れるたび、他人事とは思えず胸が傷みますが、本当に申し訳ないとは思いつつも、足利に住む幸せを感じる時でもあります。

多くの犠牲を払い、治水事業が完成し、我々は安心安全な生活を謳歌しておりますが、一年に一度位はこの慰霊碑にお参りし、祖先の霊を弔いたいと思います。

「また神風が吹いた」私の口からこの言葉が発せられるのを聞いたことのある友人は多いと思う。実際これまでの自分の人生を振り返ってみて、思わずこのフレーズを発せずにはいられない場面のなんと多かったことか。

北大を卒業し、とりあえず麻酔科で救急蘇生や全身管理の仕方、ペインクリニックについて学ぼうという事で、都内の5~6か所の有名大学病院を見学した結果、順天堂でお世話になろうと決めた事。


整形外科を将来の専攻科とすべく、東大、慶應、順天の中から慶應を選んだ事。


ゴルフ場の会員権を購入するかどうかで悩んだ時(結局購入しなくて正解でした)。


世の中がバブルに浮かれ、仲間達がこぞって株の取引をしていた頃、株取引を一切しなかった事。


平成14年9月、当院が入院対応を終了したことに伴い、保健所への療養型病床群の申請、認可、そして申請取り下げの決断をした事。


軽井沢に保養所を建設する計画の、着工2日前での中止決定。


開業して間もなくの頃、前任の事務長が退いたその夜、長年口説いていた、現在の事務長から突然の電話があり、当院で一緒に仕事をすることになった事。

その後も土地に関しては、自宅用の土地、職員用駐車場、患者さん用第2駐車場、DaVA建設用地、その付属駐車場用地など、こちらが土地を希望するタイミングを見透かすかのように、いつもタイムリーにオファーが来る。こんな時私は「また神風が吹いた」と思わずつぶやく。後で振り返ってみると、あのタイミングであの決断をしなかったら、あのオファーがなかったら、あのキーパーソンにめぐり会わなかったら今の自分を取り巻く状況はあり得ないと、しみじみ思う。
 
しかし何と言っても学生時代、ひょんなキッカケからバックパッカーとしてヨーロッパを3ヶ月ほど旅した経験はその後の自分の人生感、世界観を劇的に変えたと思う。ほぼ毎日、自分が変化して行くのを体感しながら過ごした経験は、あの時が最初で、多分最後だと思う。外人コンプレックスはこの旅行後、自分的には完全に死語となり、何か吹っ切れた感じで、どんな国籍の人間とも同じ目線で付き合えるようになり、「瞬間瞬間が人生だ」大切にしなければと思えるようになった。地方都市に生まれ育ち、ずっと体育会系で生きて来た人間が、ガラッと変身した旅だったと思う。
 
直近では、東京でのベースキャンプを設定する際、分譲にするか賃貸にするかで悩んだ末、正に直前でリスクを回避し、今振り返ればどう考えてもこれが正解でしょうという所に落ち着いた。

本当に自分はラッキーボーイだと思う場面が多いが、若い人に安易に誤解してもらっては困るのは、これまでのラッキーは、営々とストイックに蓄えた実力と、普段から出会いを大切にし、結果出来上がる豊富な人脈も大いに関係しており、宝くじに当たる幸運とは切り離して欲しいという事だ。

2013年09月13日

40年ぶりのイタリア

8月5日から12日まで夏休みをいただいて、学生時代バックパッカーで訪問して以来40年振りのイタリアへ、妻と2人で行って来ました。

今回はローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアに絞り込んで旅行しましたが、街の光景は40年前とあまり変わっていないという印象でした。これは、街の歴史的建造物を保存し、世界中から観光客を呼び込もうというイタリア政府の政策と大いに関係してのものでしょうが、いずれにせよ日本であれば破壊し撤去してしまいそうな、紀元前から続くローマの遺跡の数々が、街の中心部のいたるところに、ちょっと見ると本当に残骸としか見えないような水道橋の極々一部まで大切に保存されており、不思議な感動を覚えました。

学生時代にも感じたことですが、何か街全体が博物館になっているような感じでした。料理はどこへ行っても美味しいと思ったら大間違い。よく調べて、最終的には現地の人間から最新情報を入手した方がいいと思います。値段ばかり高くて、かなりひどい店もありました。また、ブランドショップはどこへ行っても中国人に占領されており、彼ら特有の甲高い声で機関銃のように、ツバを飛ばして、ほとんど叫ぶような会話をしていたのが印象的でした。そして皆一様に、本当にお金を持っているの?と疑いたくなるような、センスの悪い、貧しそうな身なりをしており、店員に対して上から目線で様々な要求を突きつけている様は、端から見ていてとても不快でした。

しかし、かつて日本経済が絶好調だった頃、日本女性たちがパリのブランドショップに押し寄せ、分不相応な高級品を買いあさり、○○・××・△△と三拍子そろった中年男性達はカメラを首からぶら下げ買春に走り、世界中からひんしゅくを買っていた事が思い出され、複雑な気持ちになりました。いずれにせよ私の妻は今回の旅行を通じ、中国人に対する評価を大きく下げたようです。

それはともかく、今回訪問した3ヶ所の街はいずれ劣らぬ素晴らしさで、街全体がすべて芸術品の様相を呈しており、学生時代に体験した感動が再び蘇って来るのを覚え、かつてヨーロッパに君臨した大ローマ帝国のパワーを、街のいたるところで感じさせられました。広大な植民地から収奪した莫大な富とおびただしい数の奴隷たちによりインフラの整備を進め、すべての日常の雑事から解放された人々により様々な芸術が開花したと邪推されますが、バチカン博物館やウフィツィ美術館、etc、その圧倒的な芸術品の数々は圧巻です。パリのルーブル美術館、マドリッドのプラド美術館、ロンドンの大英博物館、ナショナルギャラリーなどと比べられるとかなり見劣りしてしまいますが、十分楽しめるレベルでした。

「ローマ人の物語」の著者として有名な塩野七生さんは、イタリアに惹かれ永住権まで取得しているが、地元の人達の、本当に人生を楽しんで豊かな日常を過ごしている姿を見るにつけ、さもありなんと感じました。また、いつも海外を旅行して感じることですが、世界中いたるところに日本女性がたくましく生活しており、この3ヶ所の街でも例外ではなく、彼らがイタリアでの生活を謳歌し、日本では得られなかった人生の楽しみ方を知り、ここで骨を埋めたいと話していたのが印象的でした。

どの街も中心部の道路は狭く複雑に入り組んでおり、4~5階建に統一された石造りの建物が密集しているためランドマークが見つけにくく、すぐ迷子になってしまいそうですが、道に迷った末、急に開けた広場には必ずと言っていい程、小洒落たテラス席を併設したレストランが営業しており、そこで地元の人達がごく自然に食事をし、酒を飲み、仲間と楽しそうに語らっている様は、傍から見ていても楽しいものでした。

暑い盛りでもエアコンの効いた室内より外のテラス席を選ぶ感覚は、フランスなどでもごく普通のことであり自分的には大いに共感できるところですが、これも日本と比べ湿度が20%近くも低いお国柄ならではという事かも知れません。
最近東京でも港区を中心にオープンテラスを備えた、お洒落で快適なカフェやレストランが増えて来ましたが、とてもいい傾向だと思うし、このトレンドがいい形で定着して欲しいと願わずにはいられません。

また、せっかく本場イタリアに来たのだからという事で、日本ではとても高いプライスの付いているジーンズのJACOB COHËNや家具のPoltrona Frauの店にでも行ってみようかと思い、現地の人間に何人か聞いてみましたが、HISの現地スタッフも含め誰もこのブランドを知らなかったのにはちょっと驚きました。まさかブランド好きの日本人御用達で、主に日本向けに作られている訳でもないと思いますが、どうも聞く相手を間違えたようです。

今回訪問した3都市では、雑誌LEONに登場するような粋なイタリア人には、ミラノと違いあまり遭遇しませんでしたが、皆一様に陽気でフレンドリーだったのは40年前と少しも変わっておらず、このイタリア人気質はとても貴重だし、これからもずっと続くんだろうなと感じました。

2013年08月17日

父の記憶

最近、晩年の父の姿がよく浮かんでくるが、彼の最終章に立ち会った一人の医師として、息子として、反省することが多い。

あれ程の積極的な治療をせず、自宅で大往生の道が選択できなかったものかと考える。その時は父のために最善の選択をしたつもりでも、今冷静に検証してみると、父には辛い思いばかりさせてしまったような気がしてならない。子供や孫達に、自分のこれまでの人生で得た様々な経験や知恵や知識をゆっくり伝える時間もなく、仏門に入ってしまった。

人生の最終章を迎えた父を看ていて、ある知人がいつも口にしていた「使用すれども所有せず」というフレーズが頭に浮かび、質実剛健を最後まで貫き通した潔さに感動したことを、今思い出す。これは単に物欲を戒めているわけではなく、なかなか含蓄のある言葉だと思う。

私の父は今振り返ると、本当に物を所有する事に対する執着の乏しい人だったと思う。若い頃はどうだったか知らないが、私の知る父は常に粗末な身なりをしており、靴はいつも靴流通センターで買った500円のビニール製のものだった。別にケチだったわけではなく、お寺などにはかなり高額の寄付を、匿名を条件で行なっていたことを後になって知ることになる。購読していた二種類の新聞を隅から隅まで読み、興味のある部分はスクラップしておき、私が訪ねると「これ、読んどけ!」と言って渡されたものだ。様々なジャンルの最新の書物を次々に購入し貪欲に読み込み、自分の病状についての主治医からの説明の際には、手帳を用意して一生懸命にメモしていた姿が今も脳裏に焼き付いている。シャイで社交性がなく、派手なこと目立つことが大嫌いで、正義感が強く、好奇心が強く、何事もとことん納得するまで探求し、いつも直球勝負で人生を駆け抜けた人だった。自分の記憶する限り、面と向かって褒められたことは一度もないが、いつも別の機会に母が「お父さん、喜んでたよ。」と、そっと教えてくれた。

父を失ってからは、しばらくの間、胸に大きな穴が開いたような感じで、フワフワしていたのを思い出す。仕事を一生懸命頑張って、いい結果を出しても、これを報告に行く先を失ったので、張り合いがない。こんな中、父の同級生で親友の、考古学者、歴史学者でもある前澤輝政氏の存在はとても貴重である。私の知らない父の一面を教えて頂くし、また私の良き理解者でもあり、時には愛情のこもったアドバイスも頂くことがある。前澤氏のお話を伺うといつも、あの人の息子で良かったと思う。

親というのは本当にありがたい、かけがいの無いものだと思う。私の場合は大学時代、辻 邦生氏の「安土往還記」を読んでから父への理解、その生き方への共感が一気に進んだ気がするが、一般的に、子供が親のありがたさを理解するのはいつも遅い気がする。昔から「親孝行、したい時には親は無し」と言います。失ってから後悔するのではなく、若い人達には是非、親が元気なうちに共有できる時間をたくさん作り、先人の知恵を伝授してもらって欲しいと思います。

今から2ヶ月程前、私の従兄が東京で分譲マンションを購入しました。アークヒルズの裏手に位置し、スペイン、スウェーデン、サウジアラビア、アメリカなど、各国大使館が林立する中にそびえ立つ27階建ての立派な建物の15階の部屋でした。大きく開放された窓からの眺望も申し分なく、屋上の共有オープンデッキスペースも快適でした。また建物周辺の環境も素晴らしく、街路樹が整然と植えられ、とりわけ桜のシーズンは最高との事でした。坂を少し下るとお洒落なオープンカフェがあり、木洩れ日を浴びながらお洒落な客達が楽しそうに語らい、食事(グルメな従兄の話では、かなり美味しいとの事)をしており、まるでパリのシャンゼリゼ通りに来たような錯覚に陥りました。
 
「東京は近い将来大地震に見舞われ、壊滅的なダメージを受ける可能性が高い。」という情報からすると、そこに不動産を購入し住むなど、正気の沙汰とは思えない。この考えの下、少し冷ややかな目で、都内での新築マンション販売の好調さを眺めていた私ですが、今回の体験後多少考え方が変化して来たのを感じています。

私が永遠の命を授かっているのであればいざ知らず、五感が正常で感性が豊かなうちに、自分にとって最も快適と感じられる場所で、自分に残された貴重な時間を刻むことの意味を考えさせられました。

また住む場所を選ぶ際、建物の耐震構造、セキュリティーを含めた管理体制、眺望などはもちろん重要な要素ですが、自分にとってこれらは大体一割程度の意味しか持たず、残り9割を占めるのはそれを取り巻く周辺の環境であると考えています。

さまざまな施設(美術館、コンサートホール、ショッピングセンター、レストラン、etc)へのアクセスの良さ、気持よく散歩やジョギングのできる、治安が良くて緑の多い,瀟洒なプロムナードや、地下鉄などの交通機関が整備されているか、などなど数え上げればキリがありませんが、これらをすべてクリアできる場所があったら是非住んでみたいと考えています。

豊かさ・便利さが東京へ集中することの弊害が叫ばれて久しい中、我々から徴収された税金は首都や県庁所在地に集中的に注ぎ込まれ、多くの地方都市は衰退の一途をたどり、徐々に住みにくく、住んでいても楽しくない街になりつつあります。

天気の良い日曜の朝、朝食のとれる美味しいオープンカフェはなく、夜10時を過ぎると数少ないグルメな店はすべて閉まり、ライブの楽しめるジャズクラブもスタバもない街に私は今住んでいます。自分の納めた税金を少しでも回収する意味も含め、今よりも少しでも快適な居住環境で過ごす時間を増やすということは、考慮に値する案件かなと考え始めました。

2013年04月26日

年を重ねるということ

1993年米国で、加齢を疾患として捉え、その治療法を模索する抗加齢医学の動きが始まりました。日本でも2001年から、その研究・治療に取り組む体制が整い始めました。

人間は自己管理を徹底すれば、生物学的には125歳まで生存が可能であるという、アンチエイジングの世界での常識的な考え方は、私にとってとても心地よい響きを持って受け入れられるものであり、これからもこの目標に向けて精進したいと考えています。

ただここで自分にとってとても大切なことは、ベッドで寝たきりの125歳では意味がなく、自立した生活を送り、毎日が充実し、感動的な体験を楽しみながら時を重ねられるかという点です。

さて昨今の悪しき風潮として個人的にちょっと気になっているのは、若い人のことを、その取り巻きの年長者が過度にもて囃すことです。ある特定の若い女性達に対してこの傾向が強く、本人達もその商品価値の大半が年齢にあることを熟知しており、これを極めて短期間しか使えない強力な武器としてフルに活用している節があります。確かに若いという事は素晴らしいことではありますが、周りからチヤホヤされ過ぎて、若者がこの時期真剣に取り組まねばならない、極めてストイックで地道な努力を怠っていると、その後の人生の様々な場面で大いに苦労することになります。こんな、一部の若者達の間抜けな思い上がりを諌めるどころか支持する人達の中に、少なからず大人達が混じっているというのも困った現実です。

若者は、外見も美しいし健康にも恵まれ体力もあり、時には斬新なアイディアも出しますが、まだまだ知識も経験も未熟なので、謙虚に研鑽を重ね先輩達に教えを乞い、一日も早く一人前になって社会に貢献できる存在になる事を目指して欲しいものです。

ここで余りにも当たり前のことですが確認しておきたいのは、ただイタズラに齢を重ねただけでは知恵も知識も身に付かない。若い頃からコツコツと努力し続けた者だけが、長じて周囲からリスペクトを受け、人生の豊かな最終章を迎えることができるという事です。

最近、負け惜しみでなく本気で、今の自分の年齢に大変満足し、年を重ねるのもいいものだと感じています。

様々な食材を堪能できる研ぎ澄まされた味覚や、本物を見抜く力は徐々に磨かれて来ましたし、世の中に氾濫する様々な情報を整理し理解する能力も、知識や経験の蓄積と共にアップして来たような気がします。そして若い頃から蓄積して来た感動的な体験の数々は、ふとしたキッカケでフラッシュバックされ、楽しい思い出として一瞬にしてよみがえります。

 

また外来で仕事をしていても、最近では幸か不幸か6割以上の患者さんが自分より年下なので、若造扱いされることも少なくなり、診察するのが楽になったと感じています。若い頃に比べると経済的にも多少豊かになり、欲しい物も以前よりは手に入れ易くなって来ました。(もっとも物欲は以前に比べ、かなり衰えていますが)

ただ単に若いという事を羨ましいとも思わないし、戻りたいとも思わない。私は今のペースで年を重ねることに幸せを感じています。 

  

2013年02月28日

足利市長選について

以前、友人に足利市出身だと告げた時、「ああ、談合が最もキレイな形で温存されている街ね!」と言われ、恥ずかしい思いをしたことがあります。

私は昔から、親の影響もあってか、政治というものにあまり関心がありませんでした。しかし昨今、世界の中での日本のプレゼンスが急速に低下し、かつて「経済一流、政治は二流」と言われた評価もバブル崩壊と共に消え、その後「失われた10年」そして「失われた20年」を経て、今では「経済三流、政治も三流」などと言う声も聞かれます。

こんな中、日本の外交レベルは相変わらず五流のままという印象ですが、最近強く感じることは、やはり有能な政治家が登場し、国家を、そして各地方自治体を、明確なポリシーを持って、ポピュリズム(大衆迎合主義)に堕することなく、毅然とした態度でリードしなければ、日本の未来は相当に暗いものになるだろうという事です。

さて政治家を選ぶ際、皆さんは何を基準にして投票していますか?

同じ学校の出身者だから、親戚だから、勤務先の社長に勧められたから、利権がらみで、などの様々なしがらみだけで選んではいないと思いますが、政治家はひとたび当選してしまうと、当然のことながら大きな権力を握ります。そして我々の納めた税金の使い道についても、ある程度の権限を持つことになります。

足利市も、現市長が登場するまでの長い間、市の財政は年々悪化の一途をたどり、日光市に次いで栃木県内ワースト2位の惨憺たる状況となり、まさに夕張市ではありませんが財政破綻寸前の所まで追い込まれていました。しかし現市長となってからは、首長が変わるとここまで変わるものかと目を見張るほどの変化が起こっており、市職員および市会議員らの協力の下、財政状況は好転(1200億円あった負債が100億円減少)し、市民への行政サービスも飛躍的に改善しております。

4月には足利市の市長選挙があります。

私は医療機関という、来院される患者さんの事を考えると、常に政治的に中立の立場が求められている職業に就いており、特定の候補者を応援する立場にはありませんが、足利は我が故郷であり、多くの友人も住む町です。

この足利の将来を5年、10年、100年のスパンで捉え、活気に満ちた魅力ある街に再生させるために、斬新なアイデアと高潔で強いリーダーシップを持った市長が選ばれ、談合や随意契約が常態化し、我々の血税が無駄に使われることの無いような市政の舵取りをしてくれることを切に願いたいと思います。

2013年01月30日

HAPPY TIME

皆さんはどんな時、幸せだなあと感じますか?

私の敬愛する加山雄三氏は、名曲「君といつまでも」の中で、「僕は君といる時が一番幸せなんだ!」と言っていますが、たった一度しかない人生の中で、そんなパートナーにめぐり合える人は本当に幸せな人だろうなあと思います。

先日親しくしているパテシエから、「先生は様々なイベントやパーティーを企画、主催していますが、そこに集まったゲスト達が楽しんでいる姿を見るのが好きなんじゃないですか?」と言われ、なるほどと妙に納得し、こいつ随分冷静に観察しているなあと感心してしまいました。

確かに自分には昔からそういう所があり、自分の世界に入り込み過ぎず、そのグループの中での立ち位置を常に意識し、参加している全員が満足しているかを見てしまう癖があります。そんな時、自分が楽しんでいないかというと決してそんなことは無く、HAPPY TIMEを楽しんでいます。

先日、私の61回目の誕生日を(久しぶりで風邪を引いた為、少し日にちをずらしての開催でした。)、スタッフや仲間から盛大なパーティー(餅つき&BBQ)で祝っていただきましたが、HAPPY TIMEを満喫させてもらいました。

さて当院スタッフには日系アメリカ人でハワイから来ているRAYさんがいますが、彼ら英語人たちが主催するイベントに参加して、いつも感心させられるのはその楽しみ方です。決してお金は掛けていないのですが、アイディアに満ちあふれ、とっても楽しい時間の演出がされており、いつもHAPPY TIMEを味合わせてもらっています。

今年もまた多くの幸せな時間を重ね、充実した一年にして行きたいと考えています。 

2012年10月07日

自慢話?

先日、成田空港の本屋さんで面白い本を購入しました。家族旅行中、のんびりした時間にでも読もうかと何冊かピックアップした内の一冊ですが、これが久々のヒットでした。

タイトルは「憂鬱でなければ、仕事じゃない」、幻冬舎の見城徹氏とサイバーエージェントの藤田晋氏の共著で、35項目のテーマについて見城氏、藤田氏がそれぞれ2頁ずつ自分の考えを披露し合うというものでした。

これまで私があまり深く考えもせず、自分なりのルールも決めず、何気なくやっていたものにきちっとした意味付けをし、ああ成る程ねと共感できる部分がとても多く、これは見城氏が私と1歳違いということ以上に、これまでの人生を、同じような感性を持って手抜きをせず、真剣に、「瞬間瞬間が人生だ!」という気持ちで歩んで来た者同士の、ある種の親近感を感じさせる内容でした。

帰国後、皆にもこの本を紹介してあげようとネットで何冊か注文した際、そこに掲載されていた70件を上回るカスタマーレビューを読み、ちょっと驚きました。

見城氏の単なる自慢話と切り捨てる書評と、とても刺激的で今後のビジネスや人生に大いに活用したいという好意的な書評、そして中には賛否両論の両書評を論評するものまであり、楽しく読ませてもらいましたが、出来れば自分は、素直にこの本を評価し、さらに自分をレベルアップする糧にしたいと考えています。

何らかの意見や新しい情報に触れた時、それを素直にポジティブに受け止めるか、皮肉っぽくネガティブに受け止めるか、自分の心の持ち様次第かなと思います。

齢を重ねると、ともすれば最初から斜に構えてしまい、様々な場面で知ったかぶりをして、意味もなく批判的な態度を取ってしまったりする方も時々見受けられますが、いくつになってもピュアな心と旺盛な好奇心を失いたくないものです。

ところで、当院待合室「100の引き出しコーナー」には鬼頭隆さんの詩「ステキな人」が 収納されていますが、これは以前リハビリで働いていた、柔道整復師でありカイロプラクターでもあった佐野明文君に紹介してもらったものです。

私はさまざまな場面でこの詩を引用させて頂いておりますが、今でも読み返す度に気持ちを新たにさせられます。

かつては日本もそうでしたが、階層社会の確立した英国では現在でも各階層、各職種内での人々の暮らしがいい意味で確立しており、一人一人が自身の仕事や生活に誇りを持ち、他の階層、他の職種をいたずらに妬んだり僻んだりせず日々の暮らしをエンジョイしていると聞いております。

私も、人の成功や、喜び、楽しみ、自慢話などをおおらかに受け入れ、共感し合えるような心を、これからもずっと持ち続けて行きたいと思っています。

2012年10月02日

プライベートブランド

最近、コンビニへ行っても、ホームセンターへ行っても、プライベートブランド(以下PB)の製品が増えて来ているなあと感じます。

この企画は我が国においては、1959年大丸百貨店が販売した「TROJAN」がパイオニアであると言われており、消費者、販売店、メーカー、それぞれにとってメリット、デメリットが複雑に交錯するもので、品質が良くて低価格の製品が店頭に並ぶのであれば、問題なし!と、はじめの頃、個人的には大歓迎でした。

しかし最近、この傾向には多少懐疑的です。特に疑問を感じ始めたのは、何か必要なモノを買おうと近くのホームセンターへ行った時、買いたい商品の種類が以前に比べて減っており、ひどいケースでは、他社の製品をすべて排除して、そのホームセンターのPB製品しか置いていないなどという状況を経験してからです。

先日ちょっと呆れてしまったのは、お風呂で使うバスタブ内のゴミをすくい取るネットです。金魚すくいに使うような形のPB製品一種類しか無く、家で使ってみると案の定、網の部分が簡単に外れてしまい、全く役に立ちませんでした。店員に説明を求めても、「当店にはこれ以外提供出来る商品はございません。」と開き直るばかり、すぐに別の店できちんと機能するモノに買い変えましたが、これ以降このホームセンターには行く気がせず、不便ですが少し離れたホームセンターに行くようにしています。

品質や価格に自信があるのなら、店頭に他のメーカーの製品も並べるべきではないでしょうか?自分のPB製品だけ並べておくのは、豊富な製品ラインナップの中から選ぶことを希望する消費者に対する背任行為ではないかと考えます。

経営規模の拡大と効率化を優先し、店のスタッフの数(特にプロフェッショナルなスタッフの数)を極端に減らしてサービスレベルを低下させ、劣悪なPB製品を優先的に陳列し、消費者が今何を求めているのかという、消費者目線に立った商品構成に関しては極めて無頓着、これではいずれ一気に客離れが始まっても仕方がないかなと思います。 

また、最近の傾向として、メーカーよりも販売店の方が圧倒的優位に立って価格その他の交渉が行われるケースが多いように見受けられますが、私はこの流れには釈然としないものを感じています。

もう少しメーカーの努力が報いられるような関係に修正しないと、made in China ばかりが幅を利かせ、物造り日本の将来は危ういものとなるのではと心配しております。