わたなべ整形外科関連

2012年01月29日

スマイル

平成元年、わたなべ整形外科を開院するにあたり、私たちは「笑顔」「親切」「信頼」というモットーを掲げました。患者さんを思いっきりの「笑顔」でお迎えし、スタッフみんなで「親切」な対応をして病気が一日も早く治るようお手伝いすることで、患者さんとスタッフとの間に確固たる「信頼」関係が構築されることを願って皆で考えたものです。

以来23年目を迎え、最近よく感じるのは、この病院は患者さんもスタッフも、いつもいたる所で笑顔と笑い声のあふれる、いい雰囲気の中で動いているなあということです。「患者様」などと、待合室からお呼びする時だけ持ち上げるのではなく、「患者さん」と呼んで同じ目線で対応する中で、本音トークも自然に生まれ、「ここの病院に来ると何故かほっとする」「何でも気軽に相談に乗ってくれるので助かる」「ここに来るのがとっても楽しみ」「他の病院じゃあ緊張して話せないけど、ここなら何でも話せる」「スタッフがみんな優しいので、ついつい甘えて、悪いとは思うんだけどわがままが出ちゃう」などの声が院内いたる所で聞かれます。ともすればつらい病気を抱え、暗く、言葉少なになりがちな患者さんも、我々の病院に来た時だけは明るい笑顔がこぼれ、たくさん話をして、それまで抱えていたストレスを大いに発散して欲しいと願い、組織を運営していますが、今のところうまくいっているのではと感じています。

また私はいつも、まだ若く純粋な頃「医療機関で、困っている患者さんの為に働きたい!」と考えた時の、あの尊い気持ちを、スタッフ全員がいつまでも持ち続けられるような職場環境を提供することを心掛けています。理想論的な掛け声ばかりで、待遇が劣悪、いつも経費を切り詰める話ばかりでは、スタッフから自然にこぼれる笑顔は出て来ません。また患者さんに提供する医療レベルを高く維持し、快適な環境で治療が受けられるように、ハード面の充実も達成することで、スタッフ全員が自分の職場にプライドを持ち、やりがいを感じ、自然なスマイルが出て来るようになれば、当院を訪れた患者さんからも思わず笑顔がこぼれるものと信じています。

今後とも医師であると同時に、50人のスタッフとその家族、そして当院を選び通院していただいている患者さんの為に、戦略的な発想を持ってこの組織を運営し、我々の組織に関わる全ての人達からあふれるスマイルを引き出せたらと考えています。

札幌で過ごした学生時代、当時まだ全盛だったフレンチのレストランでコース料理を頼むことになった時、恥をかかないようにと、あらかじめ「カッパブックス」で「テーブルマナー」という本を買ったことがあります。帝国ホテル料理長の村上さんが書いたものでしたが、今でも印象に残っているのは、一通り基本的なマナーの説明が終わった後、彼が最後の方で語っていた、「一番大切なことは、マナーにとらわれず、せっかく出てきた料理を心から楽しんで、美味しく、食べること。そしてその際、同席者およびその周囲のテーブルのお客様に迷惑を掛けないように振る舞うこと。」という部分でした。

今、この年齢になって、レストランで食事をする機会も以前より大分増えましたが、いつも心掛けているのは、食事そして同席者との会話を大いに楽しむこと、店のスタッフを巻き込んでジョークを飛ばし、彼らから最高のサービスを引き出すことです。また更に、テーブルマナーを熟知した上で、敢えてちょっとだけマナー破りをすることが出来たらカッコいいなと思っています。

さて今から、タイのプーケット島の「クラブメッド」というリゾートクラブに、夏休みを利用して家族で出かけた際のエピソードをお話しようと思います。

「All inclusive」といって、朝、昼、夜の食事やスポーツ施設の利用がすべて含まれている料金設定で、朝食以外は赤・白・ロゼ、すべてのワインが飲み放題のプランでした。その施設に滞在した時の事です。

食事はすべてブッフェスタイルで、好きなものを好きなだけ、セルフで取って来て自分のテーブルで食べることになっていました。この時、日本人観光客の大半は、大きなプレートに山盛り、サラダから肉まで、まるでワンプレートランチのように載せてきて、しかも食べ切れずに大量に残してしまうという食べ方でした。

その時、同じフロアにいたフランス人のグループをウォッチングしていて、私はシビレました。彼らはまず最初にオードブルをピックアップして来て、ワインを飲み交わしながら30分程会話を楽しみ、そのあとスープ(またはパスタ)、魚料理、肉料理、サラダ、チーズといった具合に、一皿ずつ食べられる分だけ持って来て、ゆっくり会話を楽しみながら平らげて行きます。そして食べ終わった後のお皿は感心するほどキレイでした。ニコニコと、現地のタイ人スタッフ達との会話も楽しみながら、料理を残さず平らげる彼らと、食べ切れず大量に残し、テーブルを散々汚したまま、そそくさと、あいさつもせずに立ち去って行く日本人と、両者をウォッチングしていてイロイロ考えさせられました。いくら生活習慣の違いがあるとはいえ、国際社会の中での日本人の立ち位置を考えた時、この体験は私の子供たちにもいい勉強になったのではと思っています。

これからもさまざまな場面でテーブルマナーが求められることがありますが、マナーを熟知した上で、敢えてマナーにとらわれず、楽しい時間を過ごしたいと思います。

2012年01月15日

60回目の誕生日

私は2012年1月10日(火)、60回目の誕生日を迎えました。つまり、還暦ということです。毎年私の誕生日には、職員たちから朝のミーティングの際、バースデイプレゼントをいただくのが恒例となっていますが、今年は60歳ということでもあり、「赤い帽子に赤いちゃんちゃんこ」なんていうことになると大変なので、あらかじめ赤いちゃんちゃんこは自分で買うから、プレゼントしないようにと釘を刺しておきました。  

当日の朝、約束通りMONCLER「モンクレール」の真っ赤なベストを持参しましたが、みんなの前に着て出るのが照れくさくて、和泉屋セレクトのワインをプレゼントしてもらい、なんとなくお茶を濁すことにしました。しかし当院の看護婦軍団はそんなに甘くはなく、昼休みにナースステイションに呼び出され、ベスト着用の写真をまるで芸能人のように、皆から撮られまくられました。(わたなべ整形外科スタッフブログ参照)

ところで私は、平成元年に「わたなべ整形外科」を開業した際、院長として職員とどのようなスタンスで接したらいいか、いろいろ考えた末「フレンドリーな関係で行こう」と決め、数年やってみました。しかしこれは、組織が徐々に拡大して行く過程で、院長としての行動が規制されることとなり、その後はちょっと軌道修正し、「厳しいけれど、とっても優しい先生」を目指して今日に至っています。そして今私が一番心掛けているのは、常に職員から尊敬されるような存在であり続けるということです。 

仕事の時は、かなりきついことも、遠慮なくストレートに伝えるようにしていますが、信頼関係があり、尊敬される存在であれば職員は素直に聞いてくれるのではと期待しています。

そのためにも私は患者さんの診察をしている時、いつも背中で職員へのメッセージを送り続けています。敬語の使い方に始まり、患者さんの年齢、性別、職業、インテリジェンスのレベルなどに応じた当意即妙な対応。疲れていても決して手を抜かず、常に笑顔を絶やさず、真剣になって患者さん一人一人の訴えを聞き、さまざまな病気について、丁寧で分かりやすい言葉を用いてはっきり説明する姿を見せることが一番の教育であり、私の医療に対する思いを伝えることになるものと考えています。

1月12日(木)に職員とMRさん達が開いてくれた盛大な、そして心温まるバースデイパーティーと、みんなからの寄せ書きを読んでいて、これからも今のスタンスで一人一人と接して行こうと思いました。

こんな私は還暦を迎えた他の仲間たちと比べ、多少若く見えるのかも知れませんが、これからも自分で設定した125歳のゴールに向けて、人生を大いに楽しみながら、自分のペースで年齢を重ねて行こうと考えています。 

2012年01月03日

マナーについて

2003年、父を失った時以来 久々に風邪を引き、大きく体調を崩した為、万事につけ大人しくしていましたが、ようやく復活しました。そんな訳で久しぶりのブログアップになります。

今年も例年通り元旦に、家族でサントリーホールでのニューイヤーコンサートに行って来ました。いつものようにアンコールで「ラディツキー行進曲」を聞き、大満足の年明けでしたが、昨年来ブログテーマで取り上げようとしていた「マナー」について、これを象徴する様な場面に遭遇しました。それは、客席への着席の際のことです。これは日本中至る所で目にし、気になっていることですが、運悪く我々の席は中央付近で、進入するのに既に着席中の人の前を通らねばならず、ちょっと期待はしたのですが、見事に外されました。

要するに、既に着席済みの方は着席のまま、ちょっと迷惑そうな表情を浮かべながら、足を斜めに引っ込めていただき、通過させていただいた訳です。開演20分前だったので、別に失礼な状況ではなかったのですが、いつもながら余り気持ちのいいものではありませんでした。

こういう場面に遭遇した時いつも思い出すのは、学生時代にバックパッカーで3ヶ月程ヨーロッパ旅行していた頃のコペンハーゲンです。当時世界的に話題になっていた「deep throat」というポルノ映画を見るために入った映画館で、運悪く中央付近の席しか空席がなく、既に上映中だったので、とてもとても恐縮して進入しようとしたところ、その列の全員が一斉に立ち上がってプリーズと言ったのです。これには痛く感動しました。そしてこれ以降マナーについていろいろ考えるようになりました。

簡単に言うと、今の日本はマナーの悪い人で溢れています。悪気のないマナー違反が大半ですが、基本的にはこの日本という、これまで外国人との接触が極めて少なかった、安全な島国に生まれ育ってしまったため、軌道修正されたり怖い目にあったりしないまま過ごしてきたことが一番の原因かなと思います。これはある意味幸せなことだったのですが、国際化が進んだ現代では、そろそろ修正して行かないと、さまざまな場面で日本人の評価を下げるきっかけにもなりかねません。

狭い通路を通り過ぎる際、ちょっとでも肩など触れたら、欧米人は反射的にアイコンタクトを取りながらsorry !と発し、私はあなたの敵ではありません!と訴えます。これはそれだけ危険な国に住んでいる為の自己防衛から出たものかも知れませんが、ちょっと迷惑そうな表情をしながら無言で立ち去る人達と比べた時、はるかに好感のもてる対応だと感じます。

朝方、例えばエレベーターなどにたまたま乗り合わせた他人と、おはようございます!の挨拶をサラリと交わしていますか?さまざまな場面で、ありがとう 、ごめんなさい !を、反射的に発することが出来たらなんと素晴らしいし、カッコいいと思いませんか?みんながこんな事を考え、実行し始めたら日本はもう少し住みやすい国になるのになあと、新年早々夢想しております。
             

2011年12月15日

TAKE IVY

最近あるメンズショップで、初版が昭和40年という懐かしい本を見かけ、アマゾンでその復刻版を取り寄せました。それは「TAKE IVY」という本で、私が大学へ入学した年の春、ある本屋さんで偶然見つけ、購入したものでしたが、以来私の学生時代のバイブルとして、何回も何回も読み返し、当時の自分のライフスタイルに強い影響を与え続けた本でした。

「アイビー・リーグ」と呼ばれるアメリカ東部の名門8大学(ハーバード、エール、プリンストン、ペンシルバニア、コロンビア、ダートマス、ブラウン、コーネル)を訪ね、アイビー・リーガースと呼ばれる学生たちの学園生活を取材した内容になっています。

この本を読んで以来、私の服装はアイビーファッションに変化しましたが、一番変わったのはそのライフスタイルだったかなと思います。「健全な精神は健全な身体に宿る」というギリシャ以来の考え方と「良く学び、良く遊べ」というアメリカ式の合理主義が、見事に調和したキャンパスライフがここには描かれてありました。

彼らアイビー・リーガース達が目指しているのは、一緒にいるとどことなく楽しい、社交性に富んだ人間。男同士でいる時はガンガン酒を飲み、女性には聞かせられないような話もするし、思い切ったバカ騒ぎもする。しかし女性といる時は完璧な紳士で、洗練されたマナーを身につけ、様々なジャンルの音楽や本の話題も豊富な教養人。ジルバもツイストもワルツも、一通りのダンスは踊れるし、乗馬もヨットもテニスもゴルフも上手にこなす、いい意味でのオールラウンドプレイヤー。

ウィークデイは朝から晩まで勉強や部活に追いまくられ、ほとんど遊ぶ時間はないので、ラフな服装で過ごしますが、週末の夜のパーティータイムになると、タキシードにドレスアップして出かけ、思いっきり楽しむ。何しろ切り替えがとてもスマートです。

この本に出会ってから私は個人的に、プレイボーイの定義をこれまでの 「女ったらしの遊び人」から、上記のように変更し、これを目指して学生時代を存分にエンジョイしたことを、今懐かしく思い出します。残念ながらヨットだけはチャンスがなくて、ものに出来ませんでしたが、他は大体、学生時代に一通り達成できたかなと自己中的に自画自賛しています。

最近少しイタリア系に傾きつつある自分のライフスタイルですが、やはりその原点は「TAKE IVY」にあることを、この本を読み返しながら自省を込めて実感しました。

先日、1人の有能な経営者として、また人生の先輩として尊敬していた方から、「お前はDoctor Merchantだ!」と言われ、大変ショックを受けました。せめて「珍しく、経営感覚を兼ね備えた院長」位に言って欲しいものだと、その時は心の中で強く反発しましたが、冷静になって考えてみると、今の40代以上の日本人にとって、理想の医師像とは「赤ひげ」なのかなと、妙に納得してしまい、これは厄介な事だと感じるに至りました。(´・ω・`)

「赤ひげ」というのは、昭和39年に封切られた 映画監督 黒沢明氏の代表作の一つで、作家 山本周五郎が昭和34年2月、文藝春秋新社より出版した「赤ひげ診療譚」を原作としたものです。「三船敏郎」演ずる赤ひげ先生が院長を務める「小石川養生所」に、不本意な形で赴任した「加山雄三」演ずる青年医師が、最初は反発しながらも、徐々に「赤ひげ」の生き方、考え方に感銘を受け、成長してゆく過程を描いたものです。

「赤ひげ」の、医師としての行動には、私心がなく、ただひたすら患者を治すことのみに思考が集約されています。常に最善の医療を提供することに専念し、自己犠牲と奉仕の精神に充ち溢れた聖人君子として描かれており、山本周五郎が練り上げた架空の人物だからこそ、まさしく人々が求める理想の医師像となっていると感じました。たしかにこういう架空の人物である「赤ひげ」と対比して、現代の医師を批判することは、実に溜飲の下がる事かも知れませんが、果たして現在の医療制度の枠組みの中で、「赤ひげ」のような人間が存在しえるのか、皆さんで考えていただきたいと思います。

我が国では、1948年頃から健康保険が普及し始め、昭和36年(1961年)に世界に冠たる国民皆保険が成立し、国民を取り巻く医療環境は劇的に改善しました。しかし1950年頃から、医療費が年々増加することを極度に恐れる厚生官僚たちにより、保険医療を担う医師たちは、医療費の請求をめぐって、指導や監査、審査によって診療の内容にまでさまざまな制約や圧力を受け始めることになりました。そして1952年10月頃から、厚生省の監査を受けた直後に自殺する保険医が後を絶たず、頭ごなしに怒鳴りつけ、反論を許さない、高圧的で脅迫めいた言葉を多用する指導技官たちの言動が、医師の人格を無視した人権侵害だとして国会でも問題になり、厚生省が追及されるという事態にまで至りましたが、なんら改善もなく経過しておりました。しかし1993年10月11日、地域医療に情熱を燃やす青年医師が、厚生技官による個別指導後自殺したことがきっかけとなり、マスコミを巻き込んだ社会問題へと発展する事になりました。

「開業医はなぜ自殺したのか」矢吹紀人著(あけび書房) 

この事件後も多少改善されたとはいえ、基本的には指導や監査の強化を通じて、医療費を削減する事を目的とする政策が現在も行なわれているのが日本の医療の厳しい現実です。

現在でも厚労省は一貫して医療費抑制策を採り続けており、医療機関の経営状況は年々悪化しているというのが現状ですが、何の企業努力もせず、厚労省の指導通り漫然と診療を続けているとどうなるか、全国の国公立病院の8割が赤字という数字が示す通り、多くの医療機関が破たんします。アメリカのおよそ半分の医療費で、世界最高水準の日本の医療が維持されているのは何故か? それは医療関係者の自己犠牲ともいえる、ひたむきな努力がこれを支えているからに他なりません。  

「日本の医療に未来はあるか」鈴木厚著(ちくま新書)参照

今の時代「赤ひげ」のような医師が診療所を開設すれば、まず間違いなく一年以内に倒産します。経営感覚の乏しい人間が組織を率いることになると、現在の診療報酬のシステムの中では、まず間違いなく大赤字です。

常に患者目線で、患者さんにとって最高の医療を展開する事を目指し、しかも窓口での患者さんの負担を極力抑えながら、職員の待遇も高く維持する為に、院長には、ある時は医師として、そしてある時は経営者としての、二つの顔を持つことが求められていると認識しており、この姿勢を「Doctor Merchant」としてしか見ることができないのは、かなりさみしい話かなと思います。

2011年11月30日

待合室の患者さん

待合室で診察を待っている、あるいはリハビリ室で自分の治療の順番を待っている患者さんたちが、どんな心理状態にあるのか、私はいつもイロイロ考えます。

① あとどの位待てば自分の番になるのか?
② 呼ぶ順番を間違えてはいないだろうか?
③ まさか自分は忘れられてないよね?
④ どんな診断が下されるのだろうか?(初診の患者さんの場合)「まさか悪い病気じゃあないよね・・・」

こういった不安を抱えながら待っていらっしゃる患者さんに対して、我々はどう対応したらよいか、私はしばしば職員たちと話し合い、さまざまな対策を考えております。       

しかしながら、さまざまな努力をしているにも拘らず、いまだに患者さんからクレームが出たり、投書をいただいたりすることがあります。こんな時いつも我々が心掛けていることは、まずクレームや投書をいただいた方に対して、嫌な思いをさせてしまって本当に申し訳ないという、心からお詫びする気持ちと、勇気を奮って行動に出ていただき、我々の問題点を教えていただいたことに対する感謝の気持ちを持つということです。

中からばかり見ていては気付かない、患者さん目線からの指摘をきっかけに、我々の組織が一段とレベルアップしたことはこれまでにも度々あります。

クレームの中で一番多いのは、患者さんをお呼びする順番に関するものです。知り合いだから早く呼んでもらったんじゃあないかとか、社会的に地位のある人だから特別扱いしてるんじゃあないか、などの不信感が渦巻いてくると、待合室の雰囲気はかなりとげとげしいものになって来ます。

当院では幸い、我々が弱味を握られているような患者さんはいらしておりませんので、すべて受け付け順でお呼びしておりますが、今後とも誤解が生じないように、患者さんとのコミュニケイションを密にし、快適に待ち時間を過ごしていただけるよう、さまざまなアイディアを実行して行きたいと考えております。
 
私は時々いろいろな会社の社長さんや、とても忙しく、社会の第一線で活躍していらっしゃる方達とお話をする機会がありますが、こんな時いつもお伝えするのは、当院では患者さんとして来院された場合、すべて平等に、来院された順番でお呼びしており、特別扱いはできませんという事です。私はこれをとても重要なルールだと考えています。待っている他の患者さんの為でもあるし、フェアな対応をしているということで、病院に対する患者さんの信頼が高まり、その評価へと繋がって行くものと確信しております。

例えばの話ですが、マスコミにたびたび取り上げられるような有名人で、社会的な地位も高い人間が、どこかの病院を受診する際、診療申込書の職業欄に「会社役員」などと記入せず、一般の人に紛れて待合室の椅子に座り、たまたま自分を認識した人たちと雑談しながら、平然と自分の診察の順番を待っていたとしたら、自分的にはかなりカッコいい振る舞いだと思うし、この人に対する世間の評価も高まるのではないかと考えます。

兎にも角にも、こんなに混んでるんだから待つのは当たり前だ、患者さんも分かってくれるだろうなどと思い上がった考えを持たず、如何に順番を間違えず、職員一人一人がテキパキと行動し待ち時間を減らすように努めるか、そして今年のテーマでもある「わたなべ整形外科は、なぜか、待ち時間が楽しい・・・」を実現するアイディアを今後も次々に投入して行きたいと考えています。

2011年11月26日

接待について

平成24年4月から、製薬メーカーによるドクターへの接待が、今まで以上に厳しく制限されることになりました。

数年前にも似たようなルール変更があり、この時もかなり、接待に規制がかかりましたが、中でも学会発表用の文献検索や、スライド製作協力を全面禁止にするという通達は、かなり大きな衝撃が医療機関を襲いました。特に大学勤務の研修医たちは、その大半がいまだに無給、もしくは信じられないくらいの薄給で働いており、一週間の激務をこなし、週末になると生活費を稼ぐため、関連病院の当直や外来の代診としてアルバイトに出ます。またウィークデイは朝から晩まで働き、夜遅くなってから研究を開始しますが、何しろ生活は苦しく、こんな中、大変コストのかかる学会発表用の文献検索やスライド作成などを各製薬メーカーがサポートしてくれていました。これが全面禁止となり、生活費を削って学会発表を続けることの困難さを日本中の研修医達が味わいました。

幸い最近ではITの進歩により、学会発表がパワーポイントで済むようになり、スライドが不要となった為、事態は多少改善しております。

これら一連の接待規制は、公正取引委員会(以下、公取委と略す)からの行政指導によるものではなく、「医療用医薬品製造販売業公正取引協議会」(以下、公取協と略す)からの通達によるものです。つまり製薬メーカー各社が、自分たちで立ち上げた「公取協」を利用して、ドクターへの接待を規制し、経費削減に乗り出すという動きでした。

当初、大半のドクターたちが、まんまと騙されたのはその言葉使いでした。つまり、MRたちは、「公取からの通達で、もう接待その他の便宜供与が出来なくなりました。」と言っていたのですが、我々はてっきり「公取委」からの通達と勘違いして、それでは仕方がないと、素直に受け入れました。しかし後になって「公取協」からの通達に過ぎないことが判明し、全国のドクターたちの猛烈な反感を買うことになり、一部の病院ではすべてのMRの出入りが禁止になるという事態にまで発展しました。

接待という形は、大なり小なりどこの業界でも行われている商習慣であり、これがすべて廃止の方向に動いて行くとしたら、MRさん達の存在意義にも絡む重大な変更であり、見過ごすわけにはいきません。

私が開業する少し前までは、1000万円分の薬を購入すると、1000万円分の同じ薬がおまけで付いて来たり、開業祝に車を一台贈呈されたり、まあ数え上げればキリがない程の豪勢な接待攻勢が普通に行われていたと、先輩達から聞いておりますが、私自身は残念ながらこのようなおいしい体験はしておりません。

私は、あまり極端なケースは別として、ある程度の潤滑剤としての接待は、それなりに存在意義があると思いますが、個人的には開業以来、接待で、メーカーにおねだりして美味しいものを食べに行ったり、ゴルフをしたりという事は、極力避けるようにしています。これには、各メーカーと、できるだけ対等の立場で、フェアな関係を保ち、患者さんに処方する薬の選択に影響が出るのを避ける意味もあります。

美味しいものは自分でお金を出して食べたいといつも思っていますが、こういうドクターはMRさん達から見ると、少し厄介な存在かも知れません。彼らからすると、ドクター接待の名目で、自分の給料では決して行けないような高級料亭やレストラン、クラブ、ゴルフ場などに頻繁に出入りし、美味しいセレブな暮らしが実現するのです。

来年4月からの接待規制強化に向け、各メーカーではドクターへの最後の接待攻勢をかけており、高額なコストのかかるお店はどこも予約が急増していると、聞いております。私はこんな時期は避け、4月以降の、少し騒ぎが落ち着いた頃に、MRさん達にアドバイスをいただき、評判の高いお店を訪れてみようかと考えております。

もちろん自腹で。

2011年11月21日

あと何回?

最近、テニスやスカッシュをしている時、いつまでこんなに元気にコートを走り回って、ボールを追いかけることが出来るのかな?こんなに楽しく、いい汗をかくことが出来るのは、あと何回位かなあと考えることがある。ケガをしたり病気をしたりすれば、いきなりできなくなる。

一応、自分の人生125年をゴールに設定して人生設計をしているが、宇宙の営みから比べるとあまりにも短い。この短い人生を如何に充実させ、楽しむか。もうすぐ還暦を迎える私としては、大きな課題となりつつある。
 
今の仕事は、わりと安易に決めた割には結構気に入っている。遣り甲斐もある。しかし如何せん自由に使える時間が少な過ぎる。この限られた少ない時間を如何に使い切るか、これからは今まで以上に真剣に考えなければいけないと思う。

お気に入りの場所で食事をしていて、この店にはあと何回来られるかなあと思う。時間があっても、自分の体調がすぐれなければ食べには行けない。自分がOKでも、お店が無くなってしまったり、シェフが変わって味が落ちてしまうこともある。食事を、おいしく、ある感動をもっていただけるというのは、さまざまな条件が見事にマッチした時にのみ得られる、貴重な瞬間であると思う。そういった場面に遭遇した時は、時間の進行を極力遅くして、その幸せを存分に味わいたいものである。 

学生時代ヨーロッパを3ヶ月ほど、バックパッカーで旅した時、毎日が楽しくて楽しくて、そこで過ごす一分一秒がとても貴重なものに感じられた。この時自分の中から自然に出てきたフレーズが、「瞬間瞬間が人生、そんな生き方をしたい。」というものだった。以来、こんな生き方が出来たらいいなと、夢中で突っ走ってきたが、最近、死というゴールを身近に感じるようになり、自分がそこに向かって全速力で走っているような気がして、ちょっと複雑な心境である。

こんな中、「SLOW LIFE」もいいなあと思うようになって来た。大橋巨泉のごとく、まだ元気なうちにセミリタイアし、この美しい地球のさまざまな地域に、それぞれのトップシーズンを追って、渡り鳥のように移り住むというのには本当に憧れる。ついでに自分の飲み仲間たちも一緒に移動してくれると、さらに楽しさが倍増すると思うが、これはなかなか難しそうである。それぞれの土地で仲間を見つけることになると思う。

何はともあれ、世界人口は70億人に達したというのに、それぞれに与えられた短い人生の中で出会える人の数はたかが知れている。その少ない出会いの中で、気の合う仲間というフィルターにかけると、実際に付き合う人の数はさらに少なくなってしまう。最近は、こういう貴重な仲間たちと、あと何回飲み会ができるだろうかと考えてしまう。

自分はお酒大好き人間ではないので、自宅で晩酌はしない。お酒の代わりに牛乳飲みながら食事をしていることも多々ある。ホステスバーも苦手なので、たいてい男仲間たちと熱い議論を交わしながら、美味しい料理と美味しい酒(古酒以外はどんなジャンルもこなす)、これさえあれば充実した一日のエンディングとして申し分ない。

2011年11月13日

モテ期なるもの

最近は造語ばやりです。アラフォー、美(び)魔女(まじょ)、援助交際、ちょい不良(ワル)オヤジ、別(べつ)腹(ばら)、イクメン、婚活、アッシー君、断捨離(だんしゃり) etc.

次々に生まれるこれらの造語を見るにつけ、日本語というのは、世界でも他に例を見ない程、言葉遊びが自由自在にできる言語だなあと、しみじみ感心します。

こんな中「モテ期」という造語に、ちょっと目が留まりました。昔から、人生においてモテ期は3回あると言われますが、真偽の程は定かではありません。

自分自身はどうかと振り返って見ると、札幌で過ごした学生時代、金太郎と呼ばれ、北大のパートナー校である藤女子大にファンクラブがあった頃が第一期。

東京に引っ越して来て、結婚するまでが第二期だったような気がします。最近はどうかというと、外来でとてもモテています。これは老若男女を問わず、多くの患者さんと接していて、毎日感じています。(ご高齢の方にファン層が偏っているのが少し気になりますが)これが第三期なのかと考えると、ちょっとさみしい気もしますが、自分の置かれた立場を考えると、まあいい線かなと自分を納得させています。

私が学生時代からいつも目指していたのは、女性にも男性にもモテるということでした。まずは男同士の仲間うちで信頼され、ナイスガイとして評価されるのが一番で、ついでに女の子にもモテたらいいなあと考えて行動していたことを、今懐かしく思い出します。あの頃は女性にはモテるけれど、男仲間からとても評判の悪い、女ったらしと言われるのが最低と考え、体育会系男子としてテニスに、そしてアイスホッケーに打ち込んでいました。

私が突然、女性にモテ始めたのは、大学2年の夏、3ヶ月間のヨーロッパ一周旅行から帰国してからだったと思います。バックパッカーとしての貧乏旅行でしたが、毎日毎日自分が変化して行くのを感じ、驚きと共にそれを受け入れながらの、刺激的な3ヶ月でした。最初の1ヶ月は日本語で考え、英語に翻訳して話していましたが、2か月目には英語で考えて英語で話せるようになり、3ヶ月目には英語でケンカできるまでになり、寝言も英語になっていたようです。

ユースホステルやペンションに泊まりながら、さまざまな同世代の外国人と交流し、意見を交換し合う内に、自分の内面で何か吹っ切れたものを感じ、それまでの、シャイで、相手の女性の目を見て話すことが出来なかった体育会系男子が、徐々に変身を遂げる旅となりました。この旅行はその後の自分の人生に大きな影響を及ぼすものとなったと、私は確信しています。

若者よ、日本をしばらく離れて、単なる観光ではない、世界中の若者たちと触れ合う旅に飛び出そうではありませんか!