わたなべ整形外科関連

2014年(平成26年)4月1日、消費税が5%から8%に引き上げられました。欧米先進国では当然の事として行われている、食料品をはじめとした生活必需品に対する軽減税率は実施されず、一家の大黒柱の給料は上がらず、家計のやりくりは以前にも増して困難になって来ました。

今回は、2011.5.15に私がまとめた「院内処方・院外処方とは」との関連で、皆さんにささやかな提言をしたいと思います。

現在足利市には医療機関が100軒超ありますが、この内80軒前後が院外処方を採用しています。また、市内には常勤の整形外科医がいる施設が8ヶ所ありますが、この内当院以外の7軒が院外処方です。こんな中私が頑固に院内処方を続ける理由は2つあります。

1つ目の理由は、移動が大変な患者さんに対する配慮です。診察が終了した後、外の薬局まで出かけて行くのは大変な事だと思います。特に天候の悪い日などは最悪です。2つ目は、患者さんの支払う治療費の額が3割も違う為です。全く同じ治療を受け、全く同じクスリをもらっても、院外処方を採用している医療機関を受診した患者さんの方が常に3割前後、支払い額は多くなります。

この理由は厚労省が院外処方を採用する医療機関を増やす目的で利益誘導を行ない、また調剤薬局での処方に関する技術料を異常に高く設定した(あるいは院内薬局の技術料を異常に安く設定した?)為です。簡単に言うと、院外処方は経営的上のメリットを考えると医療機関の味方、院内処方は患者さんの味方です。「クスリを院内でもらえるし、窓口での負担は3割も安いのです。」

さて、皆さん御存知ないと思いますが医療非課税という法律の下、現在医療機関は薬問屋から、例えば公定価格100円のクスリを108円の消費税込みで仕入れ、患者さんには消費税抜きの100円でお渡ししています。来年以降消費税が10%になると院内処方を採用している医療機関は、クスリを処方する毎に10%の損失になるわけです。

薬価差益の全国平均が5~6%という厳しい状況となり、経営的には全くナンセンスな院内処方を維持する事の困難さを今年4月以降身にしみて感じていますが、こんな中、院長としては何とかやせ我慢をして「すべては患者さんの為に!」という事で、もう少しの間いい恰好させてもらおうかなと考えています。

消費増税で家計のやりくりが大変な中、「わたなべ整形外科」に行けば、同じ治療を受けても3割前後窓口負担が少なくて済むという情報提供でした。

2014年04月29日

祝祭日診療の事

究極の医療サービスとは、365日年中無休、24時間対応の診療体制だと、私は考えています。

病気やケガは、曜日や時間に関係なく突然襲ってきます。こんな時いつでも対応してくれる医療機関があったらいいなと思います。しかし医療水準が低くてはちょっと困ります。無愛想な対応をされるのも嫌なものです。アメリカにはこの条件を満たす病院が数多く存在します。でもちょっと問題があります。それはこのサービスを受けるには、患者さんのコストが日本の10倍以上かかるということです。アメリカの医療費が高いのは余りにも有名ですが、それだけ高額の医療費が医療機関に注ぎ込まれるおかげで、病院スタッフの人数は日本の10倍以上、給料は2倍以上が実現し、最新鋭の設備と余裕を持った勤務体制が実現出来ています。
 
さて、365日年中無休体制での医療の展開は私の夢ですが、その実現にはかなり高いハードルを越えなければなりません。わたなべ整形外科では平成22年(2010年)9月から、年間を通じて祝祭日も、午前中のみではありますが通常通りの診療(診察・リハビリ・バス送迎サービス)が受けられるようになりました。常に患者さん目線で医療の現場を見つめ、「こんな病院あったらいいな」をテーマとして平成元年の開院以来、時代の流れに身を任せ、しなやかに組織の形を進化させながらこれまで歩んで来たつもりです。

「経営を最優先にしない医療」、「患者さんが主役の医療」を目指して行くと現在のような形に落ち着くのかなと今は思っています。

しかしながら、院長として自信を持って患者サイドに立って実行していると確信していても、それに対する患者さんの反応は様々です。先日も、ある患者さんから祝祭日診療に対して「これ以上儲けてどうするの?」と言われた時にはちょっと絶句しました。

今回のゴールデンウィーク中も祝祭日はすべて、午前中の通常診療が受けられますが、これを実現するためにはスタッフ全員が、当院の目指す医療への姿勢を理解し、祝祭日出勤への協力があってはじめて実現するものであり、ねぎらいや感謝の言葉ならぬ、きつい一撃に、様々な考えを持った患者さんが来院している事を今更ながらに痛感させられ、我々はもっともっと謙虚にならねばいかん、独りよがりにならず、そして高度な医療サービスを今まで以上にサラリと提供しようと心に誓いました。

2014年04月05日

伝統の重み

昨年3月から、末の息子が英国に留学している。

開校以来400年以上の歴史のある伝統校である。先日春休みで帰国し、とても明るく饒舌になった彼と盛りだくさんの話をしていて、留学させたことが失敗でなかったことを確信した。最上級生の生徒が7月に卒業すると、全学年で日本人は彼1人になるとの事。いろいろな意味で私としては大変喜ばしい事であると思っている。彼との会話を通じ歴史と伝統に育まれた英国の学校教育の現状を知り、今の日本とついつい比較してしまい溜息が止まらなかった。 
 
体育学校でもないのに何しろ体を鍛える事に熱心である。かつて世界中の植民地から収奪した膨大な富により、我々の常識をはるかに超えたキャンパス内のインフラ整備が成されており、ラグビー(学年ごとに専用のgrass fieldを持っている)、サッカー、テニス、クリケット、バスケットボール、スカッシュなどなど様々なスポーツをバランス良く、授業の一環として毎日のSTUDYの後に取り入れ、ひたすら体を鍛え、「健全な精神は健全な肉体に宿る」を実践している感がある。
 
また毎日ハードな課題が課され宿題も多く、勉学面でも相当厳しそうだが、本人は割とケロッとしていて、何とかなっているようである。親としてちょっと嬉しいのは、忙しすぎてゲームもコミックも携帯もほとんど触れることなく毎日が過ぎているという所である。そして何より素晴らしいと感服したのは教師たちの生徒に接する姿勢だ。

やんちゃで未熟な小中高生たちを立派な英国紳士に育てようと、強い情熱を持って指導する教師が校内に数多くいる事が息子の言葉から推測される。生徒一人一人をじっくり観察し、その個性を伸ばし、結果よりもその思考プロセスを重視するという英国伝統の教育手法が脈々と先輩から後輩へ、400年の時を経て継承されている。また、教育の現場に人種的な偏見に基づくトラブルが発生せぬよう徹底的なルール作りが完成しており、この種の問題はほぼ皆無と聞いている。

かつて世界を制覇した大英帝国のしたたかな深謀遠慮の下、世界中から前途有為の若者を集め英国流の教育を施し母国に戻す。ちょうど戦前日本で教育を受け親日派となった台湾の「李登輝」元総統を連想させ、教育による世界戦略を邪推させる。全くの個人的な見解ではあるが、世界はやはり英米中心に様々なルールが作られ支配されている事を最近しばしば感じる。
 
いろいろな意味で世界の中心にある英国で教育を受けられる息子は本当に幸せな奴だとしみじみ思う。

2014年02月17日

50年ぶりの大雪

今年の足利市は2月8日、15日と、2週連続で、50年ぶりの大雪に見舞われた。

腰の具合が良くなった私は9日の日曜日、早起きして病院駐車場の雪かきをした。結構早起きして行ったつもりだったが、既にカイロプラクターの峰崎が活動を開始しており、彼に合流する事になった。とりあえずプラウドとボヌールのお客さんが駐車場から治療ユニットまでスムーズにアプローチできるだけのスペースは確保しなければということで、二人で久しぶりにいい汗を流すことになった。

つい夢中でやってしまったが、案の定、雪かきが終わるころから腰痛と右坐骨神経痛が再燃して来た。いつも患者さんに言っている事で、15分に一回位休憩を入れながら作業するなどという事は、診察時の指導としてはもっともらしく聞こえるが、作業というものは一旦始まると、休みなく進めてしまうもので現実には無理だと実感した。

さてその一週間後、14日夜から降り続いた豪雪は足利市内を埋め尽くした。

そんな中、15日(土)の早朝6時、7時に目覚ましを掛け熟睡中の私の携帯が鳴った。それは当院事務スタッフからのものだった。15日朝の病院鍵開け当番の子が、まだ新人で鍵開けに慣れておらず、心配で電話した所、雪が深くて病院に行けそうもないとの返事。それではこんな悪天候の中、わざわざ来院される患者さんに迷惑がかかってしまうとの一心で、居ても立っても居られなくなり、何とか頑張って病院まで駆け付けたが、鍵がなくて中に入れない。途方に暮れ、恐る恐る私の携帯に連絡を入れたと言う訳だった。

取るものも取りあえず、パジャマにウィンドブレーカーのまま車を飛ばし病院に到着すると、正面玄関前に当院スタッフが二人、さらに病院西側の日の当たらない側にある職員通用口に車を進めると、そこには寒さに震え立ち尽くす、私に電話を掛けてきた事務スタッフの姿があった。これにはさすがに、やられたという思いで打ちのめされ、こんなにまで病院の事、患者さんの事を思っているスタッフがいたことに痛く感動させられた。

いつも皆に言っている事だが、人は何か大きなトラブルに見舞われた時、非日常的な状況に遭遇した時、その人の本領が発揮され、真価が問われるものだと思う。悪天候の中、スタッフ各自さまざまな知恵を絞り何とか病院までたどり着き、結局いつも通りの診療を行うことが出来た。

私はこんな素晴らしいスタッフ達と一緒に仕事ができる事を誇りに思うし、またそんな環境で働ける自分は、本当に幸せ者だと、大雪のおかげで改めて再認識することが出来た。

平成25年11月3日の夕方、IKEA(イケア)で購入した極めて低価格のベッドサイドテーブルを、フローリングの床に座って1時間程かけて組み立てた直後、悲劇は起こりました。当初軽い腰痛として発症したが、徐々に右下肢全体に疼痛・シビレが拡大し、歩行は5m、立位保持は1分程で、激痛が右下肢を襲い、思わずそこにうずくまるという始末です。

考えられるあらゆる薬を大量に服用しましたがほとんど効果がなく、リハビリ、カイロプラクティックも無効の為、副院長に頼んで1週に1度、硬膜外ブロックを受ける事になりましたが、これもほとんど効果を感じる事がありませんでした。
仕方なく、半ば手術覚悟で足利日赤のMRI検査を受けましたが、予想通り、L4/5の右側にしっかりとしたヘルニアがあり、椎間孔レベルで神経根を圧迫していることが判明しました。

その後、どんなポジションをとっても痛みは軽減せず、毎晩坐薬のお世話になる日々が続きましたが、MRI検査後は何か自分の中で吹っ切れたものがあり、「たかがヘルニア、これで命を取られるわけでもないし。」というある種の開き直りが生じ、このヘルニアとの闘いの中で、少し冷静にこの病気を上から見下す事が出来るようになるに連れ、症状が好転して来たような気がします。腰痛を持病とし、長く患っている方の中には精神的に多少落ち込むケースもあり、こんな人に軽い向精神薬を少量処方すると劇的に腰痛が改善する事があるというのは整形外科医の常識ですが、私の場合も発病当初は痛みに振り回され、様々な最悪のシナリオを勝手に思い描き、精神的に落ち込み、症状を無意識に悪化せていたのかも知れません。

さて、そもそも腰部椎間板ヘルニアというのは、20~40代の若年成人に好発するものであり、高齢者でこの疾患を患っている人は少ないと言われています。そして大抵の場合、老いてヘルニアが萎んで来れば、隣接する神経を圧迫する程のパワーは無くなり、症状は改善します。私もこれを期待し、投薬・筋力アップ・ストレッチ・リハビリ・etcで時間稼ぎをしながらヘルニアの勢いが弱まるのを待つという戦法に出ました。

私はこれまでも様々な体のトラブルに見舞われることはありましたが、そんな時いつも思うのは、自分は今まで常に体を鍛え、食事に配慮し、納得のサプリメントを適量飲み、そして何より精神面のコントロールが何故か上手なので、ほとんど毎日ストレスフリーの生活をしており、多分自分の生体防御のための、免疫を含めた自家矯正力はかなりなものだろうという事です。様々な病気のアタックを受けても、身体を正常な状態に戻す力が人一倍強く、今回もこの生体防御のシステムが正常に機能し始めたのを感じています。昔から逆境に強く、追い詰められれば追い詰められる程、全身にエネルギーが充満して来て様々なアイディアが沸き起こり反撃に転じる、そんな自分の特性がまた頭をもたげたようです。

そんな訳で、現在まだ完治はしていませんが、日常生活には全く支障をきたさないレベルにまで回復しています。やはり普段の自己管理の賜物でしょうか。

12年振りでホノルルの「アラン・ウォン」に行く機会を得た。

2週間前の予約だったので当然の如く断られ、ハレクラニホテルの「ラ・メール」で妥協しようとしていた時、またまた神風が吹いた。出発の前日、ホノルル出身の当院スタッフRAYにその旨伝えるとすぐに友人のステーキハウス 「ルースクリススタッフ」TERUさんに連絡し、なんと19:15というゴールデンアワーに、前日にも拘らず予約が取れてしまったのだ。持つべきものは友達である。

店内は満席にも拘らず窓側に面した最高の席が用意されていた。頭髪を短く清潔に刈り込んだ若いスタッフ達が、極めて爽やかな接客をしてくれた。食事もワインも申し分なく、特に料理は毎度のことながら大いなる感動を覚えるものだった。客が退席すると数分以内に新たな客が入り、どの席の客達も大満足している空気が店全体を覆い尽くしていた。

いつも思う事だが、レストランにおける最高のBGMは、客達の笑い声、楽しそうな話し声であり、この店はいつも最高のBGMが流れていると感じる。大勢のフロアスタッフも本当に楽しそうに働いており、オープンキッチン内の料理人達は皆、ブルーのキャップを被りキビキビと調理しており、全体のイメージに全盛期のタブローズ(代官山)がフラッシュバックされた。

今の日本にこのレベルのレストランを探してみるが、小規模なものは何軒かあるが、ここまでのスケールの店はなかなか見つからない。残念な話である。

余談であるが、我々のディナーの翌日、オバマファミリーがこの店を訪れたとタクシードライバーが言っていたが、これまたラッキーだった。もしもあと一日予約日がずれていたら、これ程ゆったりと食事を楽しむことは出来なかっただろうし、交通規制が敷かれ、SPが大勢いる中での食事はno thank youである。

それにしてもこの街の活気は凄い。ホテルやショッピングセンターは人で溢れかえり、フードコートもレストランも満席、ショップも大勢の客でごった返している。恐らくは自分の求めるものがここで満たされることを知っている人達が、国内外から大挙して押し寄せ、満たされ、リピーターとなって行く為であろう。

受け入れ側の体制にも見るべきものがある。現状に胡坐をかくことなく、スクラップ&ビルドを繰り返し常に進化を遂げ続ける様は、オリエンタルランドの運営するテーマパークを見るようである。

我々の組織も現状に満足せず、スタッフ共々常にアイディアを出し合いレベルの向上に努め、リピーターにそして初診で来院された患者さんに、大いなる感動を与え続けることが出来るように努力して行きたいと考えています。 
        

2013年12月19日

外来診療あれこれ

当院では初めて来院された患者さんに、診療申込書への必要事項の記入をお願いしております。

ここから得られる情報は、個人情報として大切に保管されるのはもちろんですが、これから診察を受けていただく際の貴重な情報として活用させていただいております。
 
私は学生時代、医学部よりも他の学部の学生達、そして様々なアルバイトやサークル活動、「すすきの」での社会勉強を通じて、実に幅広い職種の方々と交流を深めて参りました。そのおかげもあってか、外来で初めてお会いする患者さんとも極めてスムーズに会話が進み、その方達の職業についても一般のドクターよりは、かなり深い理解を持って接することが出来ていると、少なからぬ自負を持っております。

こんな中、診療申込書の項目の中で私が特に注目するのは、職業を記入する欄です。会社員、自由業、会社役員、無職、などなど様々な記入がされており、私はこのひとつひとつを、年齢や性別を加味しながら、職業に貴賤なしの大前提の下、興味深く読み込みます。昔から「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」と申しますが、職業欄に会社員という記入しかせず、とても謙虚で腰が低く、それでいて会話の中に高いインテリジェンスを感じさせる方の診察時には、会社役員と書いて尊大に構えている方よりは、こちらサイドの緊張感のレベルが少し上がります。

こんな時いつも考える事ですが、自分がもし高名な実業家あるいは国会議員などの肩書を持っていたとしても、患者という立場でどこかの医療機関の診察を受ける際には、職業欄はあっさり記入し特別扱いを要求せず、周りの患者さんとの気さくな会話を楽しみながら、平然と自分の診察の順番が来るのを待ちたいと考えております。

こういう事のできる人を、私はカッコいいと思うし、周りの人もきっとその人に対する評価を高めるのではないかと考えています。しかしその一方で、分刻みのハードワークをこなしているような忙しい人が、会社をリタイアし悠々自適の生活をしている人と、「平等に」、混雑した待合室で診察の順番を待つことを社会は本当に望んでいるのか、疑問に感じる事もあります。アメリカのように完全予約制、1人当たりの診察時間は30分、しかし診察料は日本の10倍以上という選択肢があってもいいのではないかとも考えます。 

私は、世界に冠たる日本の医療、国民皆保険の良さは堅持しながらも、もう少し柔軟で現実的な医療制度の改革が進められ、TPPの批准によって懸念される、アメリカの保険会社を利するだけの混合診療解禁は、断固避けなければならないと考えています。

「来る者は拒まず、去る者は追わず」

私は平成元年の開業以来、この原則を忠実に守って当院のスタッフ達と接して来ました。これまでに多くの人を迎え入れ、また多くの人が巣立って行きました。こんな中、開業以来のスタッフも含め、とても長く一緒に働いている仲間達がいます。彼らに共通しているのは(これは私の勝手な推測ですが)私が掲げる、「医療に対する考え方」への共感かなと考えています。病を抱え来院される患者さんに接する際の心構えとして、開院以来掲げている「笑顔」「親切」「信頼」、そして「常に患者さんに希望を与え続ける医療姿勢」を貫く為、時には厳しくスタッフを指導する事もありますが、そんな時私の基本的な医療に対する考えを理解している人はポジティブに受け入れてもらえているようです。

診療中本当にまれにスタッフを叱ることがありますが、それは患者さんに迷惑をかける行為をした時です。また使ってはいけない言葉も多々あります。診察時、レントゲン所見や病状についての説明をしている時、よく患者さんから、この病気この症状がなかなか改善しないのは年のせいですよねと言われることがありますが、これに安易に相槌を打つと大変な事になります。「あそこの病院に行ったら、年のせいだからもう治らないと言われた。」と言い触らされることになります。また注射やギプスその他の治療が終了した時、今日はこれで「終わり」ですというのも当院ではご法度です。私は高齢者に対して「終わり」という言葉を使うのはTABOO(タブー)と考えており、必ず、今日はこれで終了です、あるいは、これで完了ですという言葉を使うようにスタッフを指導しています。その他、患者さんの前で使ってはいけない言葉は、「大丈夫ですか?」「間違えました。」「失敗しました。」「ダメでした。」などなど、たくさんありますが、基本的には、患者さんに不安感、不快感、不信感を与えるような言葉はすべて禁句とし、むしろ希望を与え、不安を解消し、信頼感、幸福感を与えるような言葉を選ぶことを目指しています。

さて頑固オヤジの復活を目指す私としては、ひとたび当院のスタッフとなったからには、お節介と言われ様がお構いなしに、ビシビシと様々な教育を行っております。言葉使い、長幼の序の徹底、高齢者、弱者へのいたわり、一般常識の習得、身だしなみに至るまで、これからの長い人生を、そして社会生活を送る上で、とても大切な、そして基本的な事を若い人達は学んでくれているのではないかと確信しております。
 
院長としては、わたなべ整形外科で最低でも3年位勤め上げることが出来れば、どこに出しても恥ずかしくない、バランスのとれた社会人に仕上がることを目指しています。

2013年10月20日

お笑い芸人考

最近私は、以前にも増してテレビを見なくなった気がする。

その一番の理由は、興味をそそられるような、内容の濃い番組がとても少なくなったと感じるからです。
そしてもう一つの理由は、どのチャンネルを選択しても関西系を中心としたお笑い芸人達が出演し、番組を仕切っているからです。

芸人とは名ばかりで、粗末な芸しか持たない人達が延々と、身内で遊んだ話や失敗した話など、一般人が仲間と居酒屋で盛り上がっているだけという風にしか見えず、交流のある芸能人や自分達の私生活を露出し合い、出演者同士で勝手に受け、大笑いしている姿を見せられても、私は何も共感できないし、少しも面白いとは思えない。本物志向の私としては、彼らのような中途半端な存在はちょっと苦手である。

さまざまなSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)にクライアントを奪われ、経営上の大きな岐路に立つTV業界としては、出演料が安く、あまり番組制作に費用や時間をかけずTV放送の帯を埋めてくれる彼らの存在は、とても貴重だという裏事情は十分理解出来るが、もうそろそろ個人的にはちょっと限界という気がするし、こんな手抜きを続けて行くとそのうち一般視聴者にも飽きられ、本格的なTV離れに拍車がかかるような気がする。

また「タブーの正体」(川端幹人著)に克明に書かれているように、TV業界を支配する大手芸能プロダクションや大手広告代理店の意向により、才能の乏しい人達が戦略的に売り出され、彼らを頻繁にTV露出させる事によって、いつの間にか国民的アイドルにまで仕立てて行く手法は見事ではあるが、欧米流の実力主義を好む私としては何とも納得の行かない所である。

ところで、頻繁にTV露出しているタレント達に対して、まったく一度も個人的に会ったことも話したこともないはずなのに、まるで自分の家族や親しい友人を呼ぶが如く、君付け、ちゃん付けで語る人達が最近急増しているような気がするが、これもちょっと個人的にはついて行けない。ちょうど言葉の語尾を、疑問符の如く上げて話す人と会話した時のような違和感を覚える。

いずれにせよ、幸か不幸か大きな社会的影響力を持ってしまった彼らに是非お願いしたいのは、自分たちの発信する言動の持つ大きな影響力をちゃんと理解し、もっと責任ある行動をとって欲しいという事です。またメディア側も、様々な圧力に屈することなく、公共の電波を扱う放送人としてのプライドを喚起し、その放送内容にもう少し責任を持ってもらいたいものです。

昭和22(1947)年9月15日夜、前日から降り続くキャサリン台風による大雨のため、足利市内の数ヶ所で堤防の決壊が起こった。

当時私の父の住んでいた実家は岩井地区の土手近くに立地していた為、堤防決壊の影響をもろに受け、併設されていた大きな工場と共に洪水で流されたと聞いている。

停電下の夜、濁流に呑み込まれ翻弄され、無我夢中で近所の鉄工所の鉄柱にしがみつき夜が明けるのを待った当時22歳の父は、そこで生き延びたことを知った時、家族は全滅したと直感し、絶望のあまり今後は四国に渡ってお遍路さんになり、家族の霊を弔って過ごそうと決意したと聞いている。しかしその直後、ただ1人生き残った8歳違いの弟の「あんちゃーん」と自分を呼ぶ声にハッとして我に帰り、この弟のためにも自分は強く生きねばならぬと考えを改めたそうだ。

それまでの裕福な暮らしは一夜にして激変し、無一文となり、乞食のような生活をしながらもこころざし高く、渡辺家の再興を目指してシャカリキになって朝から晩まで身を粉にして働いていた時、家富町の大きな鉄工所の長女だった母が、真教寺の和尚の媒酌で嫁いで来た。昭和25年2月に私の兄が生まれているので、まさにどん底の時代、あばら家同然の粗末な家に住む父の所に嫁いで来た母の決意は相当のものがあったであろうと推測される。

足利は今でこそ自然災害の極めて少ない、全国的に見てもトップランキングされる安全な町として高く評価されているが、当時は台風被害が毎年のように発生する危険な場所だったようだ。

先日9月15日、家族で岩井町の土手の上にある台風の慰霊碑を訪れ、花を手向けて来ましたが、亡くなられた多くの方々の名簿の中に4人の親族の名が刻まれている事を確認し、また掲示されていたこの台風に関する貴重な資料を改めてしっかりと読ませていただき、尋常ならぬ被害の大きさに圧倒され、いたたまれぬ気持になりました。

頻繁に流れて来る、日本各地の自然災害に関するニュースに触れるたび、他人事とは思えず胸が傷みますが、本当に申し訳ないとは思いつつも、足利に住む幸せを感じる時でもあります。

多くの犠牲を払い、治水事業が完成し、我々は安心安全な生活を謳歌しておりますが、一年に一度位はこの慰霊碑にお参りし、祖先の霊を弔いたいと思います。