Private Life

2013年02月28日

足利市長選について

以前、友人に足利市出身だと告げた時、「ああ、談合が最もキレイな形で温存されている街ね!」と言われ、恥ずかしい思いをしたことがあります。

私は昔から、親の影響もあってか、政治というものにあまり関心がありませんでした。しかし昨今、世界の中での日本のプレゼンスが急速に低下し、かつて「経済一流、政治は二流」と言われた評価もバブル崩壊と共に消え、その後「失われた10年」そして「失われた20年」を経て、今では「経済三流、政治も三流」などと言う声も聞かれます。

こんな中、日本の外交レベルは相変わらず五流のままという印象ですが、最近強く感じることは、やはり有能な政治家が登場し、国家を、そして各地方自治体を、明確なポリシーを持って、ポピュリズム(大衆迎合主義)に堕することなく、毅然とした態度でリードしなければ、日本の未来は相当に暗いものになるだろうという事です。

さて政治家を選ぶ際、皆さんは何を基準にして投票していますか?

同じ学校の出身者だから、親戚だから、勤務先の社長に勧められたから、利権がらみで、などの様々なしがらみだけで選んではいないと思いますが、政治家はひとたび当選してしまうと、当然のことながら大きな権力を握ります。そして我々の納めた税金の使い道についても、ある程度の権限を持つことになります。

足利市も、現市長が登場するまでの長い間、市の財政は年々悪化の一途をたどり、日光市に次いで栃木県内ワースト2位の惨憺たる状況となり、まさに夕張市ではありませんが財政破綻寸前の所まで追い込まれていました。しかし現市長となってからは、首長が変わるとここまで変わるものかと目を見張るほどの変化が起こっており、市職員および市会議員らの協力の下、財政状況は好転(1200億円あった負債が100億円減少)し、市民への行政サービスも飛躍的に改善しております。

4月には足利市の市長選挙があります。

私は医療機関という、来院される患者さんの事を考えると、常に政治的に中立の立場が求められている職業に就いており、特定の候補者を応援する立場にはありませんが、足利は我が故郷であり、多くの友人も住む町です。

この足利の将来を5年、10年、100年のスパンで捉え、活気に満ちた魅力ある街に再生させるために、斬新なアイデアと高潔で強いリーダーシップを持った市長が選ばれ、談合や随意契約が常態化し、我々の血税が無駄に使われることの無いような市政の舵取りをしてくれることを切に願いたいと思います。

2013年01月30日

HAPPY TIME

皆さんはどんな時、幸せだなあと感じますか?

私の敬愛する加山雄三氏は、名曲「君といつまでも」の中で、「僕は君といる時が一番幸せなんだ!」と言っていますが、たった一度しかない人生の中で、そんなパートナーにめぐり合える人は本当に幸せな人だろうなあと思います。

先日親しくしているパテシエから、「先生は様々なイベントやパーティーを企画、主催していますが、そこに集まったゲスト達が楽しんでいる姿を見るのが好きなんじゃないですか?」と言われ、なるほどと妙に納得し、こいつ随分冷静に観察しているなあと感心してしまいました。

確かに自分には昔からそういう所があり、自分の世界に入り込み過ぎず、そのグループの中での立ち位置を常に意識し、参加している全員が満足しているかを見てしまう癖があります。そんな時、自分が楽しんでいないかというと決してそんなことは無く、HAPPY TIMEを楽しんでいます。

先日、私の61回目の誕生日を(久しぶりで風邪を引いた為、少し日にちをずらしての開催でした。)、スタッフや仲間から盛大なパーティー(餅つき&BBQ)で祝っていただきましたが、HAPPY TIMEを満喫させてもらいました。

さて当院スタッフには日系アメリカ人でハワイから来ているRAYさんがいますが、彼ら英語人たちが主催するイベントに参加して、いつも感心させられるのはその楽しみ方です。決してお金は掛けていないのですが、アイディアに満ちあふれ、とっても楽しい時間の演出がされており、いつもHAPPY TIMEを味合わせてもらっています。

今年もまた多くの幸せな時間を重ね、充実した一年にして行きたいと考えています。 

2013年01月16日

カルテのこと

皆さん、カルテという言葉を聞いたことありますよね。

これは元々ドイツ語で、診療録の事を指し、医療に関する診療経過等を記録したものであり、英語ではmedical recordと言います。5年間の保管義務がありますが、最終来院から丸5年、一度も診察を受けに来ないと処分されてしまいますので、お気を付け下さい。

最近はデジタル化の波が医療の世界にも押し寄せており、カルテは紙カルテから電子カルテへ、レントゲンはCR装置と言ってフィルムを現像しない、いわゆるフィルムレスの方向に向かっています。当院も他の医療機関同様、数年前からCR装置を導入し、その便利さを享受しておりますが、電子カルテは未だ導入しておりませんし、今後も当分の間は導入しない方針です。その理由は、すでに電子カルテを導入している大勢の仲間の医師達からの評判が芳しくないからです。電子カルテの入力に忙殺され、医師が最も大切にしなければいけない、患者さんとの会話の時間が減ってしまうといった、電子カルテに振り回されている現状を聞かされる度、当院ではこのソフトがもう少し改良されるまで待とうと決意を新たにしております。

さて当院で私の診察を受けたことのある患者さんは既にお気付きの事と思いますが、私は診察中に度々セロテープで、傷んだ紙カルテの修理をしております。これは以前先輩からも教えられたことですが、カルテは医療機関にとって取扱注意の大切な宝物であり、様々な場面で極めて重要な役割を演じる貴重な公文書であると考えているからです。

毎月初めのレセプト(厚生労働省への請求書)作成は、カルテを参照して行ないますし、様々な問い合わせに対する資料としたり、裁判になった時などは証拠書類ともなります。私はカルテの記載に際し、日本語、英語、独語の入り混じった不思議な言語で行なっておりますが、それは患者さんの病態を最も適切に表現できる言語を適宜選択した結果と、ご理解いただけたらと考えています。

昔から医師の間では、カルテを見ればその医師の実力が分かると言われています。私もここ一番、自分のカルテが公の場に引きずり出された時、恥ずかしい思いをしなくて済むような、品格のあるカルテを書きたいものだと、毎日の外来の、殺人的な忙しさに追いまくられながらも、常に考えております。そしていつも心掛けているのは、何か人に問われた時、出来なかった言い訳をするよりは、何とか成し遂げるに至った過程を、自分は単に運が良かっただけと言いながらサラリとお話できるようにしたいという事。

今年も、心にいつもゆとりを持ち、柔らか頭で、様々な難題に対応して行きたいと考えています。

2012年12月11日

目指すべき道

「わたなべ整形外科スタッフの対応は素晴らしい!」と、患者さんからお褒めの言葉をいただくことがあります。
 
そんな時私は、まずは素直に「ありがとうございます。」と、我々の仕事ぶりを評価して頂いた事に対して、心からのお礼を申し上げます。そしてこの時いつも感じるのは、「我々は別に特別な事をしているつもりはない。医療機関のスタッフとは本来こうあるべきであると考え、行動しているだけであり、我々からすればごく普通の事をしていて褒められるのは、何かちょっと申し訳ないような気がする。」という事です。

病を抱え、少しでも楽になりたいという思いで来院された患者さんに対して、全くの健常人に対するのと同じように接するのではなく、いつもより気配り心配りのレベルを少しだけアップして優しく接するというのは、医療機関のスタッフにとって、基本中の基本であり、これができない人は適性がないということで、早目に転職した方がいいと私は常々考えています。

   A good doctor is a doctor who continuously gives hope to the patient. 

このフレーズは、私が患者さんを診察する時にいつも心がけている一つのポリシーです。頑固な痛みが続き、ともすれば塞ぎ込んで絶望的になりがちな患者さんを診る時などは、とりわけその重要度が増して来ます。根治が困難な患者さんに対して「あなたの病気は治りません!」「年のせいです!」などと突き放すのではなく、その困難な状況の中で、如何にして患者さんのQOL(生活の質)を高めることが出来るかを共に考え、明日への希望を与え続けるのが医師の使命と考えています。

いい加減な、その場しのぎの気休めを言うのではなく、自身の抱えている病気についての正しい情報を提供し、患者さんがその現実から目をそらすことなく前向きに受け入れ、投薬、注射、リハビリなどの持つ効能効果、更にはその副作用まで含めて十分理解し、納得した上で治療を受けていただくという事をいつも目指して私は患者さんと接しています。

また私は笑いの持つ様々な効用を確信している者の一人ですが、院内至る所で笑顔と笑い声の絶えない、まるで病院にいる事を忘れてしまうような現在の当院の雰囲気をこれからも大切にし、患者さんに対して、病気に立ち向かう勇気と将来への希望を与え続け、「あなたの診察を受け、あなたの笑顔を見ると何だか元気になれる。」と言ってもらえたら、それこそ医師の本懐と考えています。

ここ2~3年、雑誌やテレビなどのマスメディアを通じて、IT企業の豪華な社員食堂をテーマとした記事やドキュメンタリー番組を流す機会が増えています。これはマスメディアと企業と、相互の利害が一致した為に実現したものと思われますが、個人的にはちょっと違和感を覚えています。企業側からすると質の高いスタッフを獲得する為に、会社の福利厚生施設の充実ぶりをアピールするのが目的だと思いますが、見ているうちに段々不愉快になって来ることがあります。

その大小に関係なくどんな会社も、トップに立つ人間は、従業員の待遇を少しでも良くしたいと願っていると思いますが、不況が深刻化する現況ではなかなかそれも思うに任せず、申し訳ない気持ちで一杯だと思います。そんな中、一部の新業態のIT企業が、労働対価としてはかなり不適切と思われるような桁外れの利益率で業績を伸ばし、贅沢三昧を繰り広げる様を、マスメディアが勝ち組の象徴のごとく囃し立てるのは如何なものかと思います。

資源の乏しい日本にあって、ものづくりは国家の要であり、この製造業が弱体化しては日本の将来に明るいヴィジョンは見えません。楽して大金をつかむ人を英雄のようにもてはやす風潮は考えものです。汗を流し、コツコツと真面目に仕事する人達の生活が今より少しでも向上するように、社会の収益構造を大胆に見直すべき時期かと思います。

当院では日、木、土を除く毎日、夕方6時半まで診療を受け付けており、この時間までに来院された患者さんに対しては、治療が完結するまで、きっちりケアすることを基本方針としていますが、中には受付終了間際に来院される方もいらっしゃいます。その多くは作業着のままで、体中から金属粉の臭いを発散させながら、あるいはカレー粉の香りを漂わせながら、そして汗が微妙に変質した独特な臭いを振り撒きながら来院される方など、実にさまざまです。いわゆる製造業に従事する方達ですが、決して高い賃金を得ているとは思えないし、昔でいう3Kの職場で働く方達も多いのではないかなと推測します。

私はこの方達を前にするといつも自然と頭が下がり、いつも以上に優しい気持ちで診察してしまいます。あなた方のおかげで我々の快適な生活が成り立っています、エアコンの効いた快適な環境の中で仕事をさせてもらっている自分達は何と幸せな事かと、感謝の気持ちが沸々とこみ上げてくるのを感じます。

2012年11月07日

むち打ち症について

整形外科という科の性格上、当院外来には交通事故の患者さんが毎日たくさん来院されます。中でも多いのが「むち打ち症」の患者さんです。

これは正確には、「頸椎捻挫」や「外傷性頚部症候群」と診断されるものですが、俗称として「むち打ち症」「whiplash injury」などと呼ばれています。

症状としては、後頸部痛、背部痛、頭痛、肩こり、耳鳴り、吐き気、めまい、上肢のシビレ・痛み、など多岐にわたり、ある意味不定愁訴の様相を呈しますが、大半の患者さんは短期間の治療で症状が改善します。しかし中には半年、一年を超えて通院される患者さんもいらっしゃいます。

治療が長引く理由としては、レントゲンには表れない軟部組織の損傷が高度な場合や、事故前から頸椎に変形がある、さまざまな理由で薬が飲めない、ハードな仕事を続けながらの通院治療、などなどいろいろありますが、大半の患者さんが被害者(自分には全く責任がなく、いきなりぶつけられた)という立場で治療を受けているという事も、メンタルな面で多少影響があると言われています。

一般的に交通事故は受傷から3~4日して徐々に症状が強くなりますので、受傷直後大したことないと思っても、当初の1~2週間はできるだけ慎重に行動した方が良さそうです。

巷では一度事故に会うと、「後で症状が出る事があるから気を付けて、しっかり治しておいた方がいいよ!」と言われることが多く、この考え方は確かに一理あるとは思いますが、患者さんにレントゲン写真の説明をする際、骨に変形があったりすると、10年も20年も前の事故が原因なのでは?と、よく詰め寄られます。
 
自分は親から完璧な体を貰ったはずのに、何年も前の、たった一回の事故の為に背骨が変形してしまったと考えたいのでしょうが、残念ながらこの論理の進め方にはかなり無理があります。

例えば頸椎(首)に限って考えてみても、自分で考えるよりもはるかに重い「頭部」を支えている為、ただ単に朝起きて日常生活を営むだけで常に大変なストレスがかかっており、長い年月の間には徐々に変形も進むものであると考えるべきかなと思います。

当院では治療期間の短縮を目指し、「サーヴィカルピロー」という特殊な枕を「むち打ち症」の患者さんに処方しております。私も個人的に使用しておりますが、極めて快適で、旅行にも持って行きたい位の優れものです。一日の疲れを癒し、頸部のrelaxationを行ない、肩こりを解消させる意味でも有効であり、ストレスの多い現代社会における生活必需品として、もっと普及していくべきものと確信しております。    

10月18日(木)第89回目の院内クラシックコンサートを、わたなべ整形外科二階で開催しました。

このイベントは当院開業以来、春夏秋冬、一年に4回行っているチャリティーコンサートで、クラシック音楽というとなんとなく敷居が高くてと、とかく敬遠されがちな中、一流のプロの音楽家による本格的なクラシック演奏を、普段着で気軽に楽しんでいただこうという趣旨で開催しているものです。

基本は弦楽四重奏で、これにクラリネット、ホルン、ピアノ、ハープなどを加えた編成で行われることが多いのですが、時には群響の主席奏者達をお呼びしての木管五重奏、声楽家、チェンバロ、ピアソラ、ハーモニカ、スイスホルンなどなど、様々な趣向を凝らし、プロの演奏を楽しんでいます。また、私の大好きな、バッハの無伴奏チェロ組曲を無理にお願いして演奏して頂いたこともあります。

さて、第一線で活躍されているクラシックの演奏家達との交流を通じ、日本におけるクラシック演奏家達の置かれている厳しい状況が少しだけ見えて来ました。簡単に言ってしまうと、下品な言い方ですが「まあ、元は取れてないな」という事でしょうか。

一人の演奏家がプロとして独り立ちするまでには、音楽的な才能があるのは大前提で、遊びたい盛りの幼年期から時間的に拘束され、精神的、肉体的、金銭的な負担を、極めて長期間に亘って強いられるにも拘らず、プロとしてデビューした後のリターンは極めて少ないというのがシビアな現実のようです。

日本が先進国として世界から認めてもらう為には、文化的活動に対する国民の関心がもっと高まることが必要であり、個人として、企業として、また国家として、財政面まで含めてその活動をどの位までサポートする体制が出来ているかが問われているのではないかと思います。

もっともっと日常の市民生活の中にクラシック音楽が浸透し、低料金で頻繁にクラシックのコンサートが開催されるようになれば、演奏家たちを経済的にバックアップするだけでなく、その腕前がさらに上がることも期待できると思います。
 
メセナ活動を、景気の動向に左右されやすい、企業に任せっきりにせず、「金持ちの道楽」などと揶揄するのでもなく、一人一人のスタンスで文化活動を支援し、景気低迷の中大変だとは思いますが、こんな時だからこそ心にゆとりを持って美しい音楽に触れ、明日への活力を注入することも大切なのではと思います。

2012年10月07日

自慢話?

先日、成田空港の本屋さんで面白い本を購入しました。家族旅行中、のんびりした時間にでも読もうかと何冊かピックアップした内の一冊ですが、これが久々のヒットでした。

タイトルは「憂鬱でなければ、仕事じゃない」、幻冬舎の見城徹氏とサイバーエージェントの藤田晋氏の共著で、35項目のテーマについて見城氏、藤田氏がそれぞれ2頁ずつ自分の考えを披露し合うというものでした。

これまで私があまり深く考えもせず、自分なりのルールも決めず、何気なくやっていたものにきちっとした意味付けをし、ああ成る程ねと共感できる部分がとても多く、これは見城氏が私と1歳違いということ以上に、これまでの人生を、同じような感性を持って手抜きをせず、真剣に、「瞬間瞬間が人生だ!」という気持ちで歩んで来た者同士の、ある種の親近感を感じさせる内容でした。

帰国後、皆にもこの本を紹介してあげようとネットで何冊か注文した際、そこに掲載されていた70件を上回るカスタマーレビューを読み、ちょっと驚きました。

見城氏の単なる自慢話と切り捨てる書評と、とても刺激的で今後のビジネスや人生に大いに活用したいという好意的な書評、そして中には賛否両論の両書評を論評するものまであり、楽しく読ませてもらいましたが、出来れば自分は、素直にこの本を評価し、さらに自分をレベルアップする糧にしたいと考えています。

何らかの意見や新しい情報に触れた時、それを素直にポジティブに受け止めるか、皮肉っぽくネガティブに受け止めるか、自分の心の持ち様次第かなと思います。

齢を重ねると、ともすれば最初から斜に構えてしまい、様々な場面で知ったかぶりをして、意味もなく批判的な態度を取ってしまったりする方も時々見受けられますが、いくつになってもピュアな心と旺盛な好奇心を失いたくないものです。

ところで、当院待合室「100の引き出しコーナー」には鬼頭隆さんの詩「ステキな人」が 収納されていますが、これは以前リハビリで働いていた、柔道整復師でありカイロプラクターでもあった佐野明文君に紹介してもらったものです。

私はさまざまな場面でこの詩を引用させて頂いておりますが、今でも読み返す度に気持ちを新たにさせられます。

かつては日本もそうでしたが、階層社会の確立した英国では現在でも各階層、各職種内での人々の暮らしがいい意味で確立しており、一人一人が自身の仕事や生活に誇りを持ち、他の階層、他の職種をいたずらに妬んだり僻んだりせず日々の暮らしをエンジョイしていると聞いております。

私も、人の成功や、喜び、楽しみ、自慢話などをおおらかに受け入れ、共感し合えるような心を、これからもずっと持ち続けて行きたいと思っています。

2012年10月02日

プライベートブランド

最近、コンビニへ行っても、ホームセンターへ行っても、プライベートブランド(以下PB)の製品が増えて来ているなあと感じます。

この企画は我が国においては、1959年大丸百貨店が販売した「TROJAN」がパイオニアであると言われており、消費者、販売店、メーカー、それぞれにとってメリット、デメリットが複雑に交錯するもので、品質が良くて低価格の製品が店頭に並ぶのであれば、問題なし!と、はじめの頃、個人的には大歓迎でした。

しかし最近、この傾向には多少懐疑的です。特に疑問を感じ始めたのは、何か必要なモノを買おうと近くのホームセンターへ行った時、買いたい商品の種類が以前に比べて減っており、ひどいケースでは、他社の製品をすべて排除して、そのホームセンターのPB製品しか置いていないなどという状況を経験してからです。

先日ちょっと呆れてしまったのは、お風呂で使うバスタブ内のゴミをすくい取るネットです。金魚すくいに使うような形のPB製品一種類しか無く、家で使ってみると案の定、網の部分が簡単に外れてしまい、全く役に立ちませんでした。店員に説明を求めても、「当店にはこれ以外提供出来る商品はございません。」と開き直るばかり、すぐに別の店できちんと機能するモノに買い変えましたが、これ以降このホームセンターには行く気がせず、不便ですが少し離れたホームセンターに行くようにしています。

品質や価格に自信があるのなら、店頭に他のメーカーの製品も並べるべきではないでしょうか?自分のPB製品だけ並べておくのは、豊富な製品ラインナップの中から選ぶことを希望する消費者に対する背任行為ではないかと考えます。

経営規模の拡大と効率化を優先し、店のスタッフの数(特にプロフェッショナルなスタッフの数)を極端に減らしてサービスレベルを低下させ、劣悪なPB製品を優先的に陳列し、消費者が今何を求めているのかという、消費者目線に立った商品構成に関しては極めて無頓着、これではいずれ一気に客離れが始まっても仕方がないかなと思います。 

また、最近の傾向として、メーカーよりも販売店の方が圧倒的優位に立って価格その他の交渉が行われるケースが多いように見受けられますが、私はこの流れには釈然としないものを感じています。

もう少しメーカーの努力が報いられるような関係に修正しないと、made in China ばかりが幅を利かせ、物造り日本の将来は危ういものとなるのではと心配しております。  

2012年09月13日

看板について

学生時代、バックパッカーとしてヨーロッパを3ヶ月ほど貧乏旅行した時、たまたまモスクワに1週間ほど滞在したことがあります。その時一番新鮮に感じたのは、商業看板が全くない為、街が異常なまでにシンプルにスッキリと見えたことです。

商業看板がないと街はこれ程までに美しく変身するものかと感心しましたが、西欧圏に移動してからもそれぞれの街ごとに独自の基準が設けられており、街全体の景観を乱さないようにという配慮が随所に感じられ、特にイタリアのフィレンツェ、ベルギーのブルージュ、ドイツのローテンブルグなどはその完成型かと思わせる美しさでした。

ヨーロッパのすべての都市を見て来たわけではありませんが、今でもかつて自分が訪れた欧州諸都市のリアルタイムな映像に接すると、40年前の懐かしい風景がそのまま展開しており、おそらく今回のユーロ経済危機もサラリと乗り越え、50年、100年後に彼の地を訪れる観光客たちに、今と変わらぬ美しい姿を見せてくれる事と想像されます。

こんな中、日本の街並みはどうでしょうか? かつて江戸の町は、旧帝国ホテルを設計したアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトら多くの欧米人から、これほど瀟洒な街並みは見たことがないと、最大級の賛辞を送られていました。これは1865年来日したイギリス人写真家フェリックス・ベアトによって撮影された江戸の写真を見れば一目瞭然です。

しかし1923年の関東大震災や1944年から2年間106回に及ぶ米軍による東京無差別大空襲などの結果、かつての面影は完全に消え失せ、その後明確な都市計画もないままに、現在のような奇妙な街並みになっています。100年のスパンで都市計画を考えるフランスは別格としても、東京の景観が欧州諸都市と比べてかなり見劣りしてしまうのは否定できません。

はっきり言って日本中いたる所、センスの悪い看板と大量の電気を浪費する自販機が野放図に設置され、計画性のない街の景観を更に悪化させていると感じています。

ところで患者さんが病院を選ぶ際、看板を見て決めているとは考えにくいのですが、街中にあふれるおびただしい数の医療機関の看板は、どう解釈したらいいのか理解に苦しみます。

こんな中、我々「わたなべ整形外科」では電柱広告も含め、看板は一本も設置しておりません。
 
そんな無駄な宣伝広告費を使う位なら、職員の待遇を少しでも良くしてあげた方が、皆のやる気も出て、はるかに経営的なメリットも大きいのではないかと考えているからです。