院長渡辺邦夫ブログ

2020年06月28日

My Life (わが人生)

人間とは、この世に生を受けた直後から死を運命づけられ、そのゴールに向かって全速力で走り続ける生命体であるという現実感が最近たびたび私の脳裏をよぎります。大学2年の夏、バックパッカーとしてヨーロッパを3ヶ月ほど旅していた時、ちょっと不思議な体験をしました。それは昨日の自分と今日の自分が変化していることを実感するというものでした。これが、何と旅行中ずっと続きました。刺激の少ない地方都市に育ち、典型的な体育会系人間として中高6年間を過ごした田舎者が、シャイでコミュニケイション能力の極めて劣る状態でのヨーロッパ一人旅でした。旅行中、別ルートで欧州入りした同じ大学の同級生と時々行動を共にしたり、また離れたりしながら、基本一人旅の状況でした。何しろ毎日を生き抜くことに必死で、周りはオールイングリッシュの中、ひたすらアイコンタクトを取り、英語で考え英語で交渉し、昼間は現地で仲良くなった外国人旅行者たちと一緒に観光し、夜は夕食後毎晩のように、若者ばかりの安宿で繰り広げられる多彩な国籍の若者達とのディベートに参加し、何故か勝手に日本を背負って発言するという3ヶ月でした。おかげで帰国後は全く別人格のように変貌し、人前でも自分の考えをしっかり開陳出来るようになれた気がします。旅行を通じて得たものは数え切れない程たくさんありますが、その中でも特に人種の壁を超えることが出来るようになれたこと、そして「人は必ず死ぬ」だから、せっかくこの世に生を受けたんだから、「瞬間瞬間が人生」というような悔いの残らない時間の使い方をしようと考えるようになったこと、この二つが旅行の一番の収穫だったかと思います。世界幸福度ランキングトップ3の常連国であるデンマークでは、市民たちは朝目覚めると先ず「自分は必ず死ぬ」ということを自分自身で再確認し、10分間の瞑想後全身のヨガ的なストレッチをしてから一日をスタートすると聞いたことがあります。死という現実をポジティブに受け入れ、人生を前向きに楽しく生きる、そして決して働き過ぎないこと。古代ローマの哲学者セネカの記した名著「人生の短さについて」や、アップルのスティーブ・ジョブズが死を目前にして病床で語った「最後の言葉」などなど、多くの先人、賢人達が我々に伝えようとしたのは人生の儚(はかな)さではなく、自分が奇跡的な偶然でこの世に生を受けたことに感謝し、生かされている喜びを味わいながら日々過ごすことの尊さかと思います。最近、時々立ち止まって過去を振り返り、自分を見つめ直すことが増えました。やはり何より大切なのは自分が健康であること、そして家族、スタッフに笑顔があふれているか。さらには医療という仕事を通じて地域社会にどの程度社会貢献出来ているか。常にこれらを冷静に見つめ自省しながら、謙虚に我が人生を歩んで行こうと考えています。

2020年06月14日

沈みゆく日本

 今年2020年という年は、日本そして世界が新型のコロナウィルスCOVID-19に遭遇した極めてエポックメイキングな年となりました。パンデミックという意味では世界人口の1/4、およそ5億人が感染し5000万人近くが死亡したといわれる1918年のスペイン風邪以来、そして経済的な影響という意味では2008年のリーマンショックを上回り1929年の世界大恐慌以来の、全世界を巻き込んだ大惨事と言えるかと思います。こんな中、世界各国のCOVID-19対策に対する評価が徐々に定まって来ました。国の指導者として、今回の一連の国難に対峙し自国民の生命・財産を守る為、毅然とした態度で指導力を発揮し、どのような対策を講じ結果を出して来たかが今問われようとしています。しかしながら世界の首脳たちは概ねその評価を上げ、支持率も急上昇という中、我が国だけがとても残念な状況となっております。このパンデミックの襲来に対して明確な司令塔を設置せず、国立感染症研究所が中心メンバーの、いわゆる専門家会議なる組織に責任転嫁しながら「too little,too late」の対応に終始し、PCR検査の実施に対しては強い制限を掛け、意味不明のマスク配布で血税を無駄遣い。遅きに逸して発令された緊急事態宣言はあくまでも要請レベルであり、諸外国のような強制や禁止を伴うものではなく、結果として個人や企業に対する補償を伴わないという中途半端なものでした。最近になって漸く補償の問題が動き出しましたが、掛け声ばかりでとても満足の行くようなレベルのものではありません。それどころか最近首相のお友達の会社では、コロナ特需といった現象が起こっております。コロナで追い詰められ困窮する国民への給付金が途中でピンハネされたり、マスク関連で血税が怪しげな会社に注ぎ込まれ浪費されたりと、まさに火事場泥棒的な動きで利益を得るという有様です。
国家の一大事というこの時期、常識を疑うような不祥事が次々に発生しておりますが、2014年に1000兆円を超えた日本の借金は毎年約20兆円ずつ増加しており、情報公開を拒否しながらジャブジャブと血税を無駄遣いしている余裕はないと思います。こんな中、国のかじ取りを国民から託さ、れた方達からは全く危機感、緊張感が感じられず、能天気な行動ばかりが目立つのは、ある意味国家としての末期症状と考えるべきなのでしょうか。
                

2012年4月から日本で活動しているすべての製薬メーカーの営業方針が劇的に変わりました。
大雑把に言うと医療機関に対する接待を限りなくゼロに近づけるという内容です。どこのメーカーが言い出したルール改正なのか、諸説あってはっきりしませんが、何れにせよ現在では各社横並びで、医療機関に対するさまざまなサービスは、ほぼ消滅している状況です。さらに2019年4月からはカレンダーの提供も廃止となり、これでほぼ完成形かと私は感じています。(メーカー接待については小生院長ブログ2011.11.26もご覧下さい。)

こんな中MR(medical representatives)簡単に言うと、製薬メーカーの営業マン達の存在意義が急速に薄れて来ました。会社の方針で医療機関に対するありとあらゆるサービスが出来なくなりましたと言いながら申し訳なさそうに医療機関を訪れるMRに対し、激務の中、貴重な時間を割いてまで彼らに面会する暇な医師はいません。貴重な情報でも届けてくれるのであれば話は別ですが、ただ単に当社の薬を使ってくださいとお願いされても、こちらは当惑するばかりです。この
ような状況の中、MRさんとの面会を制限する医療機関が増えて来たのは自然な流れかと思います。製薬メーカー各社は接待禁止によって莫大な金額の内部留保が確保され、その金額は年々増え続けておりますが、社員への還元は殆ど考えていないようです。資本主義社会の中では、どういう手段を使って会社のイメージをアップし利益を上げるか、他社との違いをアピールし、選ばれ続ける企業を目指すか、とても重要なテーマです。巨大な海外製薬メーカーが次々日本のマーケ
ットに参入する中、日本の製薬メーカー各社は談合し、サバイバル経営戦略会議を通じて医療機関への営業を完全に廃止する決定をしたようです。生き残りの為のターゲットは厚労省。常にこの組織の役人達の顔色を伺い、良好な関係を構築することで会社を存続させるという決定はある意味正しいかと思われます。端的な例は、最近異常に高額な新薬が次々に厚労省によって薬価承認されていること、改良医薬品に高い薬価が与えられていることなどに現れていると思います。
また製薬メーカー各社が増やし続ける莫大な内部留保にはさまざまな使い道が考えられます。薬価が下げられた際の損失補填や、天下りの受け入れ、OTC(薬局で買う薬)販売の為の宣伝広告費、etc。

自由主義経済の下、製薬メーカーが医療機関に対する一切の接待を廃止し、カレンダーすら提供せず、他社製品との違いの説明も許されず、ただ営業に行って成果を出して来い、というのはある意味MRいじめのような印象を私は持っています。まるで何も武器を持たせず戦場に送り出し、素手で戦車や機関銃と戦って勝利して来いと言っているに等しいと感じます。もしかしたら会社側は、もうMR は不要であると高次の経営判断を下しており、徐々に合法的にMRゼロを目指し
ているのではと勘ぐってしまいます。医師との信頼関係構築を放棄し、厚労省にすり寄ることで生き残りを図ろうとする製薬メーカー各社に対し、私は素朴な疑問を感じております。

2019年03月13日

日本の勤務医の現実

最近の大学受験生の動向として、難関理系を敬遠し文系を志望する学生が増加傾向にあるという話を聞きました。都内予備校の調査では、医学部志望者は前年比7%程減少したそうです。これは現在の日本における勤務医の現状を考えた時、賢い選択かと考えます。厚労省による医療費抑制政策の下、年々医療機関の収入は減り続けており、その影響は真っ先に医師の待遇に反映されます。というのも経営者側が病院の存亡を賭けて、職員の待遇を下げようとすると、医師以外のスタッフの大半は辞めてしまいますので、先ずメスを入れるのは医師の給与ということになっているからです。収入面もさることながら、何しろ仕事に拘束される時間が長過ぎます。休みも少なく、家族と一緒に過ごせる時間は一般の社会人よりはるかに少ないのです。

この辺の事情は2019226日放送の「ガイアの夜明け」で放映されていましたが、大きな真実の一部が伝えられていた気がします。医師だけが何故これ程の長時間労働を強いられるのか、その根本原因は日本の医療費が欧米先進国に比べて極端に安く、経営的な理由から病院が必要とする数の医師を雇えないことが挙げられます。

例えばアメリカでは一病院あたり日本の約10倍の人数の医師が勤務しておりますので、交代で患者さんを診ることとなり、一人の医師の負担は減ります。しかしアメリカ並みに医師の数を増やしてしまうと、日本中のほぼ全ての病院は経営破綻してしまいます。つまり日本の医療は医師の忍耐と自己犠牲の上に成り立っているという見方も出来るのです。

若者達が医師を目指すとき時、病める人の力になりたい、それを通じて多少でも社会貢献したい、人に感謝されるような仕事に就きたい、など様々あるでしょうが、いずれにせよ遣り甲斐のある職業であることに間違いはありませんし、経済的にもある程度豊かな生活が保障されるのであれば医師は人気の職業となるでしょう。しかし現実は相当に厳しいと言わざるを得ません。

こんな中、素朴な疑問として皆さんが抱かれると思うのは、医師達は何故、待遇改善を訴えてアクションを起こさないのかという点だと思います。私はその理由として、医師達はその最難関学部受験に始まり、一人前に評価される臨床医に成長するまでの過程を通じ、たぐいまれなる強靭な忍耐力を身に付けてしまうからではないかと考えております。この過程は見方を変えれば、牙を抜かれていく過程でもあります。医師養成期間中はただひたすら膨大な医学知識と臨床経験の習得に明け暮れ、独創的なアイデアや斬新な発想は求められません。早朝から深夜まで院内で過ごし、外来、病棟、手術、カンファランス、学会発表用の論文作成と目まぐるしく時間が過ぎて行きます(私の勤務医時代もこんな感じでした)。こんな日常の中で、もう疲れたから先に帰りますと言える雰囲気は全くありません。先輩達も皆やって来たし、事あるごとに「医は奉仕である」と教育され、そこに何の疑問も感ぜず育って来ると、世間一般のサラリーマンとはかなりかけ離れた、想像を絶するような過酷な長時間労働にも耐えられる、強靭な精神力が醸成されて行くのかと思います。

そして、日常の院内業務に余りにも多くの時間を拘束される結果、世の中の様々な事象を正確に把握出来なくなり、良く言えば浮世離れした専門馬鹿、悪く言えば社会生活不適合者となって行くのです。当然のことながら、日本の医療全体についての正しい知識も乏しく、ただマスコミから流される偏った情報を、一般市民と同じレベルで信じ込んでしまい、日本の医療を担う自らの仕事に自信と誇りが持てないといった不幸な医師も育って来ているというのが寂しい現実です。

さて「3時間待ちの3分診療」というマスコミが好んで使うフレーズがありますが、果たしてこれは医師の怠慢から生じる現象でしょうか?

アメリカであればすべて予約制で、1日十数人の外来患者さんしか診察しませんので待ち時間ゼロ、診察時間30分が当たり前ですが、診察代は日本の10倍です。これに対し日本は診察代が異常に安い為、薄利多売の状況になっています。

こんな中、医師達は、「いつまで待たせるつもりだ!」と患者さんから罵声を浴びせられ、申し訳ありませんと、ひたすら自責の念に駆られる毎日です。しかし、たくさんの患者さんが来院され、一人ひとりを丁寧に診察すれば待ち時間が長くなるのは自明の理、これを全て医師の責任に持って行くのは多少無理があると思います。

また、医師は高給取りという幻想が巷に出回っていますが、あれだけの長時間労働の対価として、決して高くないと断言出来ますし、生涯獲得賃金で比較しても他業種よりかなり低いという客観的なデータも出ております。

繰り返しになりますが、厚労省の医療費抑制政策により、世界の先進国中最低レベルの医療費となっているにも拘らず、WHOが患者さんにとって世界最高の医療環境であると絶賛してやまない日本の医療を、自己犠牲の精神で支える医師達の真の姿を是非皆さんに知っていただき、虚偽と誇張に満ちたマスコミの偏向報道に惑わされず、疲れ切って過労死寸前の医師達に心からのエールを送っていただきたいと思います。              

2018年08月15日

頭のいい人悪い人

以前から気になっていたことですが、日本人は割と安易に「あの人は頭がいいとか、悪いとか」他人を評価してカテゴリー分けしているような気がしますが、主にその判断の根拠としているのは学歴のようです。とりあえず東大、京大、早稲田、慶応その他各大学、そして各医学部など偏差値の高い大学、学部に合格した人を頭がいい人と定義している節があります。

しかし私に言わせれば、たかが学歴で頭がいい悪いなどと判断するのは愚の骨頂。日本の大学受験で試されているのは物事を思考する能力ではなく、ただ単に暗記力の優劣であり、設問に対して誰かが決めた唯一絶対的な正解?を反射的に吐き出す能力であると私は考えています。この合格した人達の中には 稀に本当に優秀な人間も混じっていますが、大半は単に受験テクニックに長けているだけの人達だと思います。

まったく同じ知能を持った人であれば、生まれ育った場所が大都市か地方都市かで合格出来る大学は大きく変わって来ます。受験実績のある予備校や豊富な受験関連の書籍が簡単に手に入る書店、受験生のモチベイションをあげる為の様々なイベント等々、都会には受験テクニックを向上させる為の選択肢がゴロゴロ転がっています。  

こうして本当は優秀でない人、単に受験テクニックに長けただけの人間が大量に偏差値の高い大学に入学してこの国の舵取りをすることになっています。我が国の長引く経済政策の失敗は単にT大学法学部を卒業しただけの人間が経済政策を担当しているからだと、以前は単純に考えていましたが、最近は少し違うなと思うようになりました。そもそも仮に経済学部を卒業した人間であれば上手に経済政策の舵取りが出来るのでしょうか?

物事はそれ程単純ではなく、日本という国のプレゼンスがここ十数年に亘り様々な分野で急速に落ち込んでいる根本的な原因は、本当に優秀で国際的な広い視野を持った大前研一氏のような人間、国際舞台で普通に英語でディベートが出来る人間が、この国を導くポジションに就いていないからだと私は考えています。  

では本当に優秀な、いわゆる頭のいい人とは一体どんな人だと思いますか?

私は、雑多な情報を戦略的に整理して、説得力を持って伝える能力を備えた、教養のある人だと思います。因みに教養人とは、単に偏った専門知識が豊富な知識人ではなく、多様な文化や歴史についての見識も豊富で、5年、10年先まで見通すことの出来る透察力を持ったリベラルな人だと思います。こういうまともな人間、国際社会でも高く評価される人間を育てる為には、以前から欧米で教育の基本として採用されている「リベラルアーツ」の考え方を、もっともっと教育現場に浸透させ「ARTSPORTSTUDY」の三拍子揃った人材育成を進めることだと考えます。

偏った専門知識だけで国際的な見識の無い、海外の高官の家で催されるホームパーティーに招待されても、気の利いたジョークの一つも発することが出来ず、存在感の無い壁の花、ユーモアのセンスもARTの素養も無い、極めて人間としての魅力に乏しい若手官僚たちが各省庁から選抜され、国費で海外研修に出て行く現状は、税金の無駄使いだと考えています。更に困るのは海外留学中、政府高官のホームパーティーに招かれたことがあると自慢し、石原慎太郎氏言う所の「yellow banana 」となって日本の国益を損なう情報のリークを日常的に行っていることであります。 

2017年09月14日

有言実行

私は毎晩4kmのスロージョギング。腕立て伏せ50回を2セット。腹筋40回を2セット。この間にストレッチマシンで全身のストレッチを挟み込み、最後の仕上げはV-BALANCE10分間の3Dバイブ運動。飲み会の後も、時間の許す限り(030A.M.まで)、就寝前に筋肉を思いっきりイジメ、大汗をかき、シャワーを浴び、この直後に爆睡し、就寝中に筋肉から放出された乳酸が成長ホルモンの分泌を促すことを夢見ながらの毎日です。

私は仲間や患者さんから、あなたの健康維持の方法は?と問われた時、このエクササイズについて伝え、合わせてサプリメントの服用についてもお話します。

学生時代からそうでしたが、私は何か思いつくと周りのみんなに公言してしまい、そうすることで自ら退路を断ち、腹を決め実現する方向でコツコツ努力し、結果、ある程度のレベルにまで到達するという生き方をして来ました。はっきりとした言葉で自らの考えを伝え、真正面からアイコンタクトを取りながら様々なテーマについて議論を交わし、論破し論破されながらバランスの取れた教養人を目指すという生き方が私は好きです。

私は、たまたま医師という職業を選択し、更には院長として仕事をしているという幸運にも助けられ、組織の中での不合理を飲み込み、プライドを捨てて頭を下げたり、誰かに媚びたりする必要もなく、割とストレートに、ある種の正義感を持って、社会派のドクターとして、自分の考えを表明することが出来る立場にあります。常に周囲の人に自分の夢や将来のプランを語り、日々努力する。そうしてアドバルーンを揚げ続けていると、その実現のために周りから貴重な情報提供や様々なサポートが舞い込むラッキーもあります。

いつも胸の奥深くにしまって置かないで、もっと自分のプランを公開しましょう。人生は本当にあっという間に過ぎ去ります。会いたい人があるなら会う、やりたいことがあるなら全てやる、という気持ちでいないと、残るのは後悔ばかりだと思います。

たった一人しかない自分を、たった一度しかない一生を、

 本当に生かさなかったら、人間生まれてきた甲斐がないじゃないか

「路傍の石」このフレーズは何度聞いても新鮮に、胸に刺さります。

                               2017.9.14

2017年05月13日

正論・民意

日本では自分の考えを人前でストレートに発言しないことが美徳であり、謙虚で奥ゆかしいと評価される文化がある様な気がします。この流れの中で、会議中意見を求められて何も発言せず、異議なしであるかのような態度を取っておきながら、会議終了後仲間とひそひそ、会議をリードしていた人や決定された内容について批判し、自分は常識を持ったリベラリストであるかのような行動をとる人がいます。こういう人達は欧米人から見るとアンフェアであるとみなされ、いつも直球勝負で生きている私が結構苦手にしているタイプです。幼い頃から教育の一環としてディベートやディスカッションで鍛えられ、集団の中で自分の考えをはっきり発言するように育てられて来た彼らからすると、公の場で意見を求められてもあまり発言しない日本人に対してはかなりの違和感を覚えているのではないでしょうか。

さて世の中には勇気を持って公共の利益の為に正論を主張する人がいます。しかし彼らは損得勘定で行動する利権がらみの勢力の前では無力であり、たとえ正論であってもそれをあまり強く主張すると、いたずらに敵を増やし社会的な立場までもが危うくなることもあります。こうして物知り顔の、いわゆる「オトナ達」は口を噤んでつぐんで世渡り上手な対応をし、負の遺産を後世に遺すことになります。本来であればマスメディアがこれら正論を取り上げ、検証・評価し、広く市民に知らしめる役割を担うはずなのですが、オピニオンリーダーとしての気概や誇りを持たず、忖度優先で様々なタブーに支配された彼らに、現時点では何も期待することは出来ません。

最近頻繁に、民意と言う言葉を聞くようになりました。様々な政策決定そしてそれを実行する際、民意と言う便利な言葉を用いて、皆が同意したのだからと半ば強引に事を進める場面を見せられるたび私は強い違和感と不快感を覚えます。メリット・デメリットを公平に両論併記した正しい情報提供は成されたのか?市民は本当にそれを望んでいるのか?決定するプロセスは公開の場で、映像や書類などで記録を残しながら、 賛成派・反対派の主張を平等に取り上げたのか?議会で言えば賛成した議員、反対した議員の名前とその主張は広報で公開すべきかと考えます。

税金が無駄に使われたり、国家財産が政治家の絡みで忖度され、不当に処理されたりする今の我が国の状況は本当に発展途上国並であり恥ずかしい限りです。卑しくも日本が先進国を名乗りたいのであれば、フランスのように会計検査院の権限をもっと強化し、政治家や他の省庁から完全に独立した組織としてすべての不正を許さず、最終的には会計検査院が厳しくチェックし処罰するという形にすることが必要であると考えます。投票率が最低を更新する中、歴史観を持たぬ利権絡みの一部有権者の意見を以って民意と言うなら、大衆社会における民意などあまり意味のないものとなるでしょう。アメリカでは世襲議員が5%と言われる中、自民党においては40%を越えるジュニア議員達が国会を埋め尽くしておりますが、有権者はもう少し真剣に、日本の未来を託すに足る人物を選ぶべきではないかと考えます。    2017.5.13

2017年02月20日

日本語の不思議

最近日本語という言語の持つ危うさにしばし考えさせられることがあります。先日亡くなられた野坂昭如氏は、援助交際する少女のことを「個人営業の売春婦」と喝破していましたが、低俗なマスコミ諸氏が本当は由々しき社会問題を、ともすれば美化するような言葉で飾り立て、少女達を安易な売春行為に走らせる昨今の風潮にはかなり違和感を覚えます。

学生時代から相当な悪で、さまざまな人に精神的・肉体的ダメージを与え補導歴もあるような、いわゆる不良でチンピラだった男が、もちろん本人の努力もあったことは認めますが、様々な幸運を得て社会的に成功すると、大半の日本人はこの人物の過去の悪行を「ヤンチャ」という一言で片づけ、まるで免罪符のように許し、むしろ美化するような風潮があることにも違和感を覚えます。社会的に認められ、それなりの評価をされるようになった場合、若い頃悪だった人の方が、真面目に生きて来た人よりも何だか味があってカッコいいと評価する風潮はとりわけ芸能界では顕著な気がします。

いずれにせよ、幼い頃(どう考えても小学生位まで)の罪のないイタズラと中学生以降の他人を傷つける犯罪的な行為はハッキリと区別して、ヤンチャという言葉で一括りにするのはやめて欲しいものです。 

さて一般的に外国人にとって日本語は習得するのが難しいという事になっておりますが、私は個人的にはこの意見に懐疑的です。日本語は基本的に母音が多く発音し易く出来ており、またイントネイションやアクセントの位置を決定的に間違えても意味が通じてしまいますが、英語やフランス語ではこうは行きません。要するに日本語というのは単語を羅列するだけで、何とか日常会話レベルは大抵間に合ってしまうのです。

ただし言葉の持つ深い意味や微妙なニュアンスまで正確に伝えたいということになるとその難易度は一気に上がります。一つの単語に様々な意味を持たせたり、同じ事象に対して何通りもの違った表現をすることの出来る日本語は、難しい言語というよりは味わい深く豊かな表現力を持った言語と言えるでしょう。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字を駆使し、これ程までに完成された奥の深い、絶妙な表現力を持った言語を私は日本語以外知りません。我々日本人は、先人達から継承したこの言語を更に磨き上げ、時代の流れの中で巧みに適合させながら、世界に冠たる言語としての地位を確立し、誇りを持って美しい日本語を流暢に使いこなせるようになりたいものです。

外国人と交流する時は英語、ゆるく心豊かな時間を過ごしたい時は日本語という風に、状況によってさりげなく使い分けることが出来たら素敵だなあと考えています。

日本中が1年で最も冷え込むこの時期、患者さんから投げかけられるお決まりの言葉があります。「外がとっても寒いので厚着をして来たら、院内が暑くて汗をかいちゃったよ。病院の職員さんは皆んな半袖で仕事が出来て幸せだね。」そんな時、外来診療の混み具合にもよりますが、院内の温度設定に関する持論を展開することがあります。

皆さんは、そもそも医療機関の院内温度とはどういう基準で設定されていると思いますか?それは職員が半袖で快適に、そして活発に活動出来るように設定されている訳ではありません。来院された患者さんが診察を受ける際、状況によってはかなり薄着になっていただく場合があります。我々が設定している室温はまさにこの時の患者さんに合わせているのです。病院に行って診察を受け、風邪を引いて帰って来たなんて、様になりませんよね。そんな訳で当院の室温は冬の寒い時期、一般家庭での設定温度より多少高めに調節されております。

私が学生時代を過ごした札幌では、厳しい冬の時期「暖かさは何よりのごちそうです。」と言って、自宅を訪問された方をもてなすと聞いております。冷え込みの厳しい冬場、厚着して来院された際は是非、ごちそうを振る舞われた位に考えて、簡単に一枚二枚脱いで体温調整が出来るような服装で来院されることをお願いしたいと思います。

こんな中、昔はデパートなどに行った時、冬はちょっと暑いし、夏は冷房が効き過ぎて寒い位ということがよくありました。しかし個人的にはこの状況はウェルカムで、高温多湿でとても不快な日、デパートに足を踏み入れ、涼しくて快適な思いをした記憶がありました。しかし最近の傾向として大半のショップでは夏場の温度設定がかなり高めで、入店した際ちょっとがっかりさせられることが多い様な気がします。そこには様々な理由があるのでしょうが私が直感的に感じるのは、お店で長い時間過ごさねばならないスタッフの健康管理を最優先にし、ついでに電気代も節約し、エコに貢献しているポーズも取れるとういう、まさに一石三鳥の戦略であり、そこには酷暑の中、汗をかきながらわざわざ来ていただいたお客様に対する配慮が欠落しているような気がしてなりません。

私はサービス業を展開しお客様が同席される状況での温度設定と、オフィスや工場でスタッフだけが長時間過ごす環境での温度設定は当然異なるものにすべきであり、常にその場の主役は誰なのかを考えて室温を決めるべきであると考えております。

以上、偉そうなことを書き連ねて参りましたが、真夏の炎天下、あるいは真冬の凍るような厳しい環境下で働いている方達が大勢いらっしゃることを我々は常に肝に銘じ、1年を通じてエアコンの効いた快適な環境で仕事が出来ることに感謝せねばならないと考えております。   

2017年01月16日

ピロリ菌

つい先日、我が人生で2回目の胃内視鏡検査を受けて来ました。20年近く前、ワインパーティーで飲み過ぎた翌日から発症した、コントロール不能な胃の激痛に耐えかね、近くの消化器内科で受けて以来の検査です。

30年来の花粉症により肥厚した下鼻甲介と37年前御前崎灯台近くでクラッシュして以来の鼻中隔湾曲症という悪条件のため、鼻腔からの侵入を断念し口からファイバースコープを飲み込むことになりました。嚥下反射の強い私としてはちょっと辛いチャレンジでしたが、私が最も信頼し、本人も「足利ではおそらく俺が一番上手」と言い切る同級生外科医の高度なスキルにも助けられ、何とかこの苦行を無難にこなすことが出来ました。

結果は幸い良好で悪性所見は確認されず、検査が終わってから何だか新しい命を与えられ、もう少し生きていてもいいぞという生存許可証を与えられた様な、妙な高揚感を感じています。この一連の検査の際、ベテランと思しき看護婦さんがそっと私の背中をさすってくれていたのですが、嘔吐反射で辛い状況の中、何だかとても勇気付けられ救われた様な気がしました。改めて医療チームとしての看護婦さんの存在の大きさを痛感させられた時間でした。

さて昨年の秋、ピロリ菌検査で陽性判定、その後除菌そして胃内視鏡検査と一連の流れを経験した訳ですが、今更ながらに「医者の不養生」という言葉が自分の頭の中で渦巻いています。最近ではピロリ菌に関する研究が進むに連れ、これをきちんと除菌することにより胃がんの発症リスクが激減すると言われており、何故もっと早くこの一連の検査を受けなかったのか自分的に不思議です。また、一度除菌に成功するとその再発率は2%以下と言われており、まだピロリ菌の検査を受けていない方は出来るだけ早い時期に受診することをお勧めします。現在ピロリ菌の検査には、胃カメラで直接胃粘膜から採取する方法、血液、尿、便による検査、そして今回私が受けた尿素呼気検査などがありますが、私としては呼気検査が総合評価で一押しです。またピロリ菌が見つかった場合の除菌方法も大分進歩しており、1週間分の内服セットが用意されています。「早期発見、早期治療」言葉にすると簡単ですが実際に行動に移す方は少ないのが現状です。しかし呼気検査であれば極めて簡単ですので皆さん是非受けてみてはいかがでしょうか。