日本人として、国際人として

2017年05月13日

正論・民意

日本では自分の考えを人前でストレートに発言しないことが美徳であり、謙虚で奥ゆかしいと評価される文化がある様な気がします。この流れの中で、会議中意見を求められて何も発言せず、異議なしであるかのような態度を取っておきながら、会議終了後仲間とひそひそ、会議をリードしていた人や決定された内容について批判し、自分は常識を持ったリベラリストであるかのような行動をとる人がいます。こういう人達は欧米人から見るとアンフェアであるとみなされ、いつも直球勝負で生きている私が結構苦手にしているタイプです。幼い頃から教育の一環としてディベートやディスカッションで鍛えられ、集団の中で自分の考えをはっきり発言するように育てられて来た彼らからすると、公の場で意見を求められてもあまり発言しない日本人に対してはかなりの違和感を覚えているのではないでしょうか。

さて世の中には勇気を持って公共の利益の為に正論を主張する人がいます。しかし彼らは損得勘定で行動する利権がらみの勢力の前では無力であり、たとえ正論であってもそれをあまり強く主張すると、いたずらに敵を増やし社会的な立場までもが危うくなることもあります。こうして物知り顔の、いわゆる「オトナ達」は口を噤んでつぐんで世渡り上手な対応をし、負の遺産を後世に遺すことになります。本来であればマスメディアがこれら正論を取り上げ、検証・評価し、広く市民に知らしめる役割を担うはずなのですが、オピニオンリーダーとしての気概や誇りを持たず、忖度優先で様々なタブーに支配された彼らに、現時点では何も期待することは出来ません。

最近頻繁に、民意と言う言葉を聞くようになりました。様々な政策決定そしてそれを実行する際、民意と言う便利な言葉を用いて、皆が同意したのだからと半ば強引に事を進める場面を見せられるたび私は強い違和感と不快感を覚えます。メリット・デメリットを公平に両論併記した正しい情報提供は成されたのか?市民は本当にそれを望んでいるのか?決定するプロセスは公開の場で、映像や書類などで記録を残しながら、 賛成派・反対派の主張を平等に取り上げたのか?議会で言えば賛成した議員、反対した議員の名前とその主張は広報で公開すべきかと考えます。

税金が無駄に使われたり、国家財産が政治家の絡みで忖度され、不当に処理されたりする今の我が国の状況は本当に発展途上国並であり恥ずかしい限りです。卑しくも日本が先進国を名乗りたいのであれば、フランスのように会計検査院の権限をもっと強化し、政治家や他の省庁から完全に独立した組織としてすべての不正を許さず、最終的には会計検査院が厳しくチェックし処罰するという形にすることが必要であると考えます。投票率が最低を更新する中、歴史観を持たぬ利権絡みの一部有権者の意見を以って民意と言うなら、大衆社会における民意などあまり意味のないものとなるでしょう。アメリカでは世襲議員が5%と言われる中、自民党においては40%を越えるジュニア議員達が国会を埋め尽くしておりますが、有権者はもう少し真剣に、日本の未来を託すに足る人物を選ぶべきではないかと考えます。    2017.5.13

2017年02月20日

日本語の不思議

最近日本語という言語の持つ危うさにしばし考えさせられることがあります。先日亡くなられた野坂昭如氏は、援助交際する少女のことを「個人営業の売春婦」と喝破していましたが、低俗なマスコミ諸氏が本当は由々しき社会問題を、ともすれば美化するような言葉で飾り立て、少女達を安易な売春行為に走らせる昨今の風潮にはかなり違和感を覚えます。

学生時代から相当な悪で、さまざまな人に精神的・肉体的ダメージを与え補導歴もあるような、いわゆる不良でチンピラだった男が、もちろん本人の努力もあったことは認めますが、様々な幸運を得て社会的に成功すると、大半の日本人はこの人物の過去の悪行を「ヤンチャ」という一言で片づけ、まるで免罪符のように許し、むしろ美化するような風潮があることにも違和感を覚えます。社会的に認められ、それなりの評価をされるようになった場合、若い頃悪だった人の方が、真面目に生きて来た人よりも何だか味があってカッコいいと評価する風潮はとりわけ芸能界では顕著な気がします。

いずれにせよ、幼い頃(どう考えても小学生位まで)の罪のないイタズラと中学生以降の他人を傷つける犯罪的な行為はハッキリと区別して、ヤンチャという言葉で一括りにするのはやめて欲しいものです。 

さて一般的に外国人にとって日本語は習得するのが難しいという事になっておりますが、私は個人的にはこの意見に懐疑的です。日本語は基本的に母音が多く発音し易く出来ており、またイントネイションやアクセントの位置を決定的に間違えても意味が通じてしまいますが、英語やフランス語ではこうは行きません。要するに日本語というのは単語を羅列するだけで、何とか日常会話レベルは大抵間に合ってしまうのです。

ただし言葉の持つ深い意味や微妙なニュアンスまで正確に伝えたいということになるとその難易度は一気に上がります。一つの単語に様々な意味を持たせたり、同じ事象に対して何通りもの違った表現をすることの出来る日本語は、難しい言語というよりは味わい深く豊かな表現力を持った言語と言えるでしょう。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字を駆使し、これ程までに完成された奥の深い、絶妙な表現力を持った言語を私は日本語以外知りません。我々日本人は、先人達から継承したこの言語を更に磨き上げ、時代の流れの中で巧みに適合させながら、世界に冠たる言語としての地位を確立し、誇りを持って美しい日本語を流暢に使いこなせるようになりたいものです。

外国人と交流する時は英語、ゆるく心豊かな時間を過ごしたい時は日本語という風に、状況によってさりげなく使い分けることが出来たら素敵だなあと考えています。

日本中が1年で最も冷え込むこの時期、患者さんから投げかけられるお決まりの言葉があります。「外がとっても寒いので厚着をして来たら、院内が暑くて汗をかいちゃったよ。病院の職員さんは皆んな半袖で仕事が出来て幸せだね。」そんな時、外来診療の混み具合にもよりますが、院内の温度設定に関する持論を展開することがあります。

皆さんは、そもそも医療機関の院内温度とはどういう基準で設定されていると思いますか?それは職員が半袖で快適に、そして活発に活動出来るように設定されている訳ではありません。来院された患者さんが診察を受ける際、状況によってはかなり薄着になっていただく場合があります。我々が設定している室温はまさにこの時の患者さんに合わせているのです。病院に行って診察を受け、風邪を引いて帰って来たなんて、様になりませんよね。そんな訳で当院の室温は冬の寒い時期、一般家庭での設定温度より多少高めに調節されております。

私が学生時代を過ごした札幌では、厳しい冬の時期「暖かさは何よりのごちそうです。」と言って、自宅を訪問された方をもてなすと聞いております。冷え込みの厳しい冬場、厚着して来院された際は是非、ごちそうを振る舞われた位に考えて、簡単に一枚二枚脱いで体温調整が出来るような服装で来院されることをお願いしたいと思います。

こんな中、昔はデパートなどに行った時、冬はちょっと暑いし、夏は冷房が効き過ぎて寒い位ということがよくありました。しかし個人的にはこの状況はウェルカムで、高温多湿でとても不快な日、デパートに足を踏み入れ、涼しくて快適な思いをした記憶がありました。しかし最近の傾向として大半のショップでは夏場の温度設定がかなり高めで、入店した際ちょっとがっかりさせられることが多い様な気がします。そこには様々な理由があるのでしょうが私が直感的に感じるのは、お店で長い時間過ごさねばならないスタッフの健康管理を最優先にし、ついでに電気代も節約し、エコに貢献しているポーズも取れるとういう、まさに一石三鳥の戦略であり、そこには酷暑の中、汗をかきながらわざわざ来ていただいたお客様に対する配慮が欠落しているような気がしてなりません。

私はサービス業を展開しお客様が同席される状況での温度設定と、オフィスや工場でスタッフだけが長時間過ごす環境での温度設定は当然異なるものにすべきであり、常にその場の主役は誰なのかを考えて室温を決めるべきであると考えております。

以上、偉そうなことを書き連ねて参りましたが、真夏の炎天下、あるいは真冬の凍るような厳しい環境下で働いている方達が大勢いらっしゃることを我々は常に肝に銘じ、1年を通じてエアコンの効いた快適な環境で仕事が出来ることに感謝せねばならないと考えております。   

2017年01月16日

ピロリ菌

つい先日、我が人生で2回目の胃内視鏡検査を受けて来ました。20年近く前、ワインパーティーで飲み過ぎた翌日から発症した、コントロール不能な胃の激痛に耐えかね、近くの消化器内科で受けて以来の検査です。

30年来の花粉症により肥厚した下鼻甲介と37年前御前崎灯台近くでクラッシュして以来の鼻中隔湾曲症という悪条件のため、鼻腔からの侵入を断念し口からファイバースコープを飲み込むことになりました。嚥下反射の強い私としてはちょっと辛いチャレンジでしたが、私が最も信頼し、本人も「足利ではおそらく俺が一番上手」と言い切る同級生外科医の高度なスキルにも助けられ、何とかこの苦行を無難にこなすことが出来ました。

結果は幸い良好で悪性所見は確認されず、検査が終わってから何だか新しい命を与えられ、もう少し生きていてもいいぞという生存許可証を与えられた様な、妙な高揚感を感じています。この一連の検査の際、ベテランと思しき看護婦さんがそっと私の背中をさすってくれていたのですが、嘔吐反射で辛い状況の中、何だかとても勇気付けられ救われた様な気がしました。改めて医療チームとしての看護婦さんの存在の大きさを痛感させられた時間でした。

さて昨年の秋、ピロリ菌検査で陽性判定、その後除菌そして胃内視鏡検査と一連の流れを経験した訳ですが、今更ながらに「医者の不養生」という言葉が自分の頭の中で渦巻いています。最近ではピロリ菌に関する研究が進むに連れ、これをきちんと除菌することにより胃がんの発症リスクが激減すると言われており、何故もっと早くこの一連の検査を受けなかったのか自分的に不思議です。また、一度除菌に成功するとその再発率は2%以下と言われており、まだピロリ菌の検査を受けていない方は出来るだけ早い時期に受診することをお勧めします。現在ピロリ菌の検査には、胃カメラで直接胃粘膜から採取する方法、血液、尿、便による検査、そして今回私が受けた尿素呼気検査などがありますが、私としては呼気検査が総合評価で一押しです。またピロリ菌が見つかった場合の除菌方法も大分進歩しており、1週間分の内服セットが用意されています。「早期発見、早期治療」言葉にすると簡単ですが実際に行動に移す方は少ないのが現状です。しかし呼気検査であれば極めて簡単ですので皆さん是非受けてみてはいかがでしょうか。

2016年01月08日

本を出版するという事

先日、東京の有名な出版社から突然連絡があり、編集者と当院で面会する機会がありました。訪問の目的は、私の「わたなべ整形外科院長ブログ」を一冊の本にまとめて出版しませんかという事でした。私には前々からその予定があったので、渡りに船と彼らの提案を最後まで聞くことになりました。最後に出版に当たっての費用や実例集などの資料をいただき、後日こちらから連絡しますという事でお開きになりました。

金額はどの程度が妥当なのか、皆目見当が付かなかったので知り合いに相談してみると、大体半額位で栃木県内の新聞社から出版したという方がいらっしゃいました。またもう既に何冊か自分の著作のある従兄に電話した所、「え~、邦夫ちゃんお金払って本出すの?俺お金もらって本出した経験しかないからアドバイスは出来ないよ、ごめんね。」とつれない返事でした。

ここで改めて出版社のスタッフのセールストークを思い起こしてみた所、段々と冷静に今回の一連のエピソードを検証することが出来ました。別に彼らは私のブログの内容に感銘を受けたわけではなく、病院の院長や会社の社長、政治家、僧侶その他ある程度の財力があり社会的な地位もある一群にターゲットを絞り込み、ある時はゴーストライターとして本を出版させ、その功名心を満たし、あわよくば組織に何らかの利益をもたらす手段として本を活用しては如何でしょうかという提案を携え、自分の出版社の営業活動の一環として東京から出張して来たという事のようでした。

以前から時々、院長ブログをA4のクリアファイルごとプレゼントするという場面がありましたが、これはよく考えてみると結構厄介な贈り物で、何しろかさ張り、置く場所に困るだろうなと最近反省しきりです。捨てるわけにもいかずそうかといって何回も読み返すほどの物でもないしで、受け取った方はさぞかし難渋しているのではとお察しします。

そんな訳で、コンパクトな1冊の本にまとめた方がご迷惑をお掛けしないだろうという事で出版を思い立ったわけですが、自分には特に功名心もないし営業用に使う予定もないので、余り高額な出費は本来の趣旨から逸脱し、出版社を儲けさせるだけだろうと考えています。インターネットの進歩に伴い本を読む人が減っている中、あえて活字で印刷された本を出版する意味をしっかりと自分なりに確認しながら、その作成に向け出来るだけコストパフォーマンスの良い出版社をこれから地道に探してみようかと考えています。        2016.1.8

高校時代とても優秀で担任の教師からも勧められ、偏差値最難関の医学部に進む学生がいます。入学後も学問一筋、他の学部に進学した同級生達が大学生活を大いにエンジョイするのを傍目で見ながら膨大な勉強量をこなし、6年間の学生生活の後無事医師国家試験に合格。2年間の新臨床研修医期間をこなし、晴れてドクターとしての生活がスタートしますが、そこに待ち受けていたのは大学院へ入学して博士号を取得するお誘い。流れでなんとなく大学院に入ったはいいが大学でのポジションは基本的に無給医局員。それどころか大学院の4年間は授業料を払わねばなりません。そしてそのほとんどの時間を大学内の研究室で過ごし、時々市中の病院の当直や、外来診療のアルバイトをして生活費を稼ぎ出すという毎日です。大学院を卒業し無事博士号を取得しても大学にスタッフとして残れる人はごく少数で、大半は関連病院に派遣され、外来診療、手術、入院中の受け持ち患者さんのケア、学会活動(研究と論文の作成)、等々に追われる日々を過ごし、1~2年のスパンで医局の命を受け転勤を繰り返す為、永年勤続の昇給はほとんど望めません。また、数年前から製薬メーカーの経営上の戦略変更により接待が事実上禁止となった為、年に数回あったグルメな日々も消えてしまいました。

5年10年とこんな生活を続け、縁あって開業するケースもあり、大学のスタッフとして迎えられるケースもあります。しかし大学に残ったとしても優秀であればある程、その課される仕事量は増え続け、外来診療、手術、受け持ち患者さんの回診、新人医師の教育、など一連のDutyが終わった後ようやく自分の持つテーマについての研究、そして日本中世界中で発信される最新の文献に目を通し、学会活動用の論文作成、医学雑誌社からの原稿依頼の執筆、この合間をぬって家族の生活費を得る為に関連の医療機関での外来や手術をこなし、いつも自宅に帰るのは深夜になってしまいます。本当に体がいくつあっても足りない、と言うより毎日激しく消耗し疲れています。医師は体力がなければやっていけないというのは本当だと思います。

毎朝4時半に起床出勤し大学でのDutyがスタートするまでの数時間は誰にも邪魔されず集中して自分の研究に打ち込めるとても貴重な時間なんですと、親しくしている某大学病院勤務の医師が言っていました。こんな中、大学に残り相当優秀であっても教授にまで上り詰めるのはとても大変です。というのも教授職は年齢的に定年まで大体任期10年前後就任可能なことを目安に選ばれますが、たまたまポジションが塞がっていればどんなに優秀でも教授にはなれない訳です。また仮に開業したとしても、これに伴って背負い込まねばならぬ課題は山積しています。正直な話、学問や研究に人生の大半の時間を注いで来た医師がすべて有能な経営管理者となれるわけではありません。

しかしこれまでは医師免許取得というとても高いハードルをクリアし、また人の命を預かる尊い職業ということで世間からのリスペクトもあり、多少拙い経営差配でも何とか黒字でやっていけるような、国のシステムとしてのサポートがありましたが、最近では財務省の極端な医療費抑制政策の下、かなり厳しい状況となっており経営環境の悪化した医療機関も数多く存在します。


そして病院が倒産するとマスコミは一斉に経営感覚の無い無能な院長だと決めつけますが、これにはかなり違和感を覚えます。昔から「医は仁術」と言われますが、卓越した経営感覚を持ち、職員の待遇を落とさず、患者さん本位の医療を展開することの出来る院長を生み出すような教育環境は今の日本にはありません。

だからと言って経営コンサルタントの提案を鵜呑みにし、いわゆる利益追求型の経営に舵を切った時、患者不在の診療にならないか、冷徹なビジネスの論理を医療の世界に導入する危うさを体感することになるのではなどいろいろ危惧されます。

さてオバマケアが2年前にスタートして以来アメリカでは一般市民を取り巻く医療環境の悪化が一段と深刻化しており、また医師の自殺率は上昇の一途を辿っており、専門職の中で一番の高率となっているそうです。日本でも、真面目にコツコツと励んでいる多くの医師たちの待遇がもう少し改善しないと、今後優秀な学生が医学部に入って来なくなり、我が国の医療水準全体のレベルダウンにも繋がりかねないのではと心配しております。


また最近のもう一つ心配な傾向として、医療をビジネスチャンスと見て様々な他業種からの参入が相次いでいるという問題があります。
確かに膨大な量の勉強をして資格を取り、その後も営々として最新の医療水準を維持する為一生勉強を続ける宿命を持った医師という職業集団は、総合的な経営管理学を学んだ人達からするとその経営手腕は本当に稚拙であり、とても勝負にならないのかも知れません。

ここに商機を見出し、したたかな百戦錬磨の企業並みの経営ノウハウを投入することで大きな利益を上げる法人が急増しております。
これまで、もう少し工夫すればもっと利益が出るのにと、傍から見て歯がゆいような、患者さん本位の運営をしていた分野に、「医療は困っている患者さんを助ける奉仕活動である」という視点ではなくビジネスとして割り切って経営する人達が参入して来ました。様々な法人が介護保険絡み、院外処方薬局絡みで参入し、中にはM&Aの手法で次々に病院を買収しその傘下に収め、巨大な医療集団を構築する動きもあります。
 
医師になれば多少は豊かな暮らしが出来、また患者さんの治療や医学の研究を通じて世の中にいくらかでも貢献出来るかも知れない、やりがいのある職業として選んだはずが、夢と現実の大きなギャップにただ茫然としながらも日々のDUTYをこなし、献身的な医療を提供している医師達を私はたくさん知っています。

2015年11月14日

情報公開について

私はどうしても止む負えぬ家庭の事情で1年に1~2度飛行機に乗りますが、搭乗するたび今度こそ墜落して命を落とすのではないかという予感がします。率直な話、あんな大勢の乗客と大量の荷物を搭載した物体が空を飛ぶという不自然さを考えただけで空恐ろしい限りです。飛行中CA達はことさらに平静を装い、「これから多少気流の悪いエリアを通過しますので、シートベルトをお締め下さい。」などと言い放つことがありますが、これまで何回か生きた心地のしない経験をし、これで終わりかなと思ったこともあります。

こんな中、いつも考える事があります。それは情報公開という事です。フライトを選択する際、搭乗予約を確定する前に、勤務するパイロットや搭乗予定の飛行機に関する詳細な情報が入手出来るとしたら、多少割高になったとしても、よりリスクの低いものを選びたいと心底思います。しかしこのささやかな願いが叶えられることはなく、これらの詳細な情報が開示されるのはいつも墜落して多くの犠牲者が出た後です。パイロットに自殺願望があったり、機体が何回も事故を起こしたことのあるポンコツで、搭乗員の間では出来れば乗りたくないと思われている飛行機に乗せられるかも知れないのに、これらの情報は一般人には一切公開されない仕組みになっています。

日本では様々な場面で真実の情報が公開されていないもどかしさを感じることが多いです。2011.3.11の東日本大震災に続いて起きた福島第一原発事故は、ここに来てようやく人災である側面があぶり出されて来ていますが、まだまだ真実の情報不足でその真相究明には程遠い感じがします。

こんな中、安倍首相はオリンピック誘致のプレゼンの際、放射能は完全にコントロールされていると大嘘をついていましたが、現実には放射能は今尚拡散を続けており、終息のめどは全く立っていません。大気・地下水・土壌・海水の放射能汚染の実態はほとんど正確には公表されず、福島で甲状腺がんに罹る子供たちが増加しているという事実や、農作物や魚介類の汚染実態の公表など、政府はこれからも真実の公表を控え、ひたすら安全安全と報道することで、原発事故そして放射能汚染の矮小化・過少化に努める方針のようです。

とても寂しい話ですが海外メディアやアメリカ政府の報道からようやく事実を知らされるという事が最近よくあります。いずれにせよ、このままのペースで放射能汚染の範囲が広がって行くと、東日本での居住が困難となる日もそう遠くはないような気がします。

ここは政府も偽りの安全宣言ばかり出していないで、真実の情報を公開し、日本国の英知、そして不足であれば世界中の専門家を国費で招聘し意見を聞き、本気で放射能汚染の封じ込めに当たってもらいたいものです。 

2015年09月30日

こんな人になりたい

洗練された人、行動がスマートな人、物腰が上品な人、オシャレな人、スタイルのいい人、服装のセンスのいい人、歩き方がかっこいい人、流暢な・美しい日本語が話せる人、姿勢のいい人、笑顔がステキな人、上品に日焼けしている人、ユーモアのセンスがある人、知識が豊富で話し上手な人、一緒にいて楽しい人、一緒にいると元気にさせてくれる人、一緒にいると癒される人、正義感の強い人、不正を憎み戦う勇気を持っている人、自分よりも立場の弱い人に対してもやさしく同じ目線で接する人、誰に対しても決して媚びない人、誰に対しても親切で平等に振る舞う人、真実を探求する強い意志を持った人、初心を忘れず決してぶれない人、常に謙虚な人、いつも胸を張って行動している人、大きな仕事を成し遂げても自分は運が良かっただけと言い本当にそう思っている人、高齢者を敬い感謝し心からのサポートを惜しまない人、メンタル面でのコントローが上手でいつも上機嫌な人、子供に好かれる人、いろいろな意味で頼りにされる人、レストランに行くとたった一回で常連並みの対応をしてもらえるようになってしまう人、ワインを選ぶ時ソムリエのうんちくに惑わされず自分なりの基準を持っている人、美味しい料理をリーズナブルに提供してくれる店を様々なジャンルに亘り知っている人、自分に似合う服が揃っている店を知っている人、様々なジャンルの音楽を愛し自分のお気に入りがいつでも引き出せる人、スポーツを愛し定期的にエクササイズをしている人、酒の飲み方を知っており陽気な酒飲みである人、年齢・性別・国籍を問わず愛される人、英語が普通に話せて海外でも不自由しない人、日本の国を愛し日本人であることに誇りを持っている人、自分はnationalistではなくpatriotだと固く信じている人、一通りのダンスが出来る人、パーティーを主催しゲストが楽しむ姿を見て幸せを感じる人、既成概念に囚われず常に柔軟な発想で物事を処理する人、既得権益にしがみつき努力しない人が大嫌いな人、同業者目線ではなく常に患者さん目線で行動する人、世話焼きで面倒見がいい人、スタッフから尊敬される存在になることを目指している人、自分にコミットするすべての人が幸せになることを常に願い行動している人、患者さんを整形外科領域からだけでなく常にトータルに診ることを心掛けている人、外国人に対するコンプレックス・差別・偏見がなく自然体で付き合える人、太陽の光を浴びると全身にエネルギーが満たされると感じている人、汗を流しシャワーを浴びビールを飲むのが好きな人、遊びでも仕事でも常に全力投球な人、アイディアが豊富でそれを形にすることが得意な人、気配り・心配りの出来る人、バランス感覚の優れた人、時代の流れを読む先見性に優れた人、様々なジャンルの専門家と交流があり互いにリスペクトし合っている人、emergencyに対する対応能力に優れた人、追い詰められれば追い詰められるほどパワー充満し普段以上の強烈な力を発揮する(逆境に強い)人、いざという時頼りになる人、男性からも女性からも人気がある人、新しい勤務先で一番最初に仲良くなるのはお掃除のおばちゃん達という人、群れて傷を舐め合うのが嫌いな人、狡い人卑怯な人を極度に嫌う人、肩書や名誉を求めずそれに無頓着な人、精神的にも肉体的にも極めてタフな人、常に自分より凄い人尊敬できる人を知っていてその人に少しでも追い付こうと努力している人、情報収集のアンテナが高く常にUpdateで正確な情報をバランスよく入手している人、知識人ではなく教養人を目指している人、たった一度しかない一生を大切に生きようといつも心に誓っている人、そんな人になりたい。

2015年08月15日

開業四半世紀

平成27年6月18日、当院主催の院内クラシックコンサート第100回公演が開催され、一応の幕引きとなりました。開業以来1年に4回、小生幼なじみ青山進君の発案で始まり、チャリティーの形で運営し、群響OBの弦楽四重奏を中心にピアノや管楽器なども随時参加するコンサートでしたが、いよいよその最終回を迎えるにあたり感慨ひとしおです。群馬交響楽団の現役の演奏家達にも、コンサートマスターをはじめ多数出演してコンサートを盛り上げていただきました。

質の高いクラシック音楽の生演奏を、気楽に普段着で楽しんでもらおうというコンセプトで、いわゆるメセナ活動の真似事をさせていただきましたが、100回のコンサートを運営する過程で我々は多くの事を学び、また多くの感動を、コンサートにお集まりいただいた皆さま方と共有できた事を心から感謝しております。

さて、平成元年10月の開業から25年が経過し、26年目に足を踏み入れた「わたなべ整形外科」ですが、この頃着実に重ねた年齢のおかげで、副院長も小生も大分老朽化が目立ち始めております。こんな我々をしっかりサポートし、ボロが出ないように優しく、時には厳しくケアしてくれているのはズラリ揃ったベテランナースと事務、リハビリの精鋭達です。開業以来の生え抜き、あるいは看護学生として18歳で就職して以来などという、ある意味家族よりも一緒に過ごした時間が長いのではというスタッフ達も健在であり、彼らに支えられながら、もう少しの間現役で頑張ってみようかと考えております。

思いっきりの笑顔で患者さんをお迎えし、親切・丁寧に最高水準の医療をさりげなく提供することでADL(日常生活動作)の改善からQOL(生活の質)の向上に繋げるという地道な営みを日々続けて来たつもりですが、最近ようやく、自分が当院を開業する前に描いていた、一つの理想とした形に近づいて来たような気がします。院内を見渡すとスタッフにも患者さんにも自然な笑顔があふれており、生き生きと楽しそうに働くスタッフと患者さんとの間にはしっかりとした信頼関係が生まれ、徐々にそれが確固たるものに育ちつつあることを感じております。

また当院では開業以来一貫して院内処方を採用しておりますが、このシステムは診療終了後、院内の会計窓口でお薬が手渡され、しかも全く同じ治療、全く同じ薬が処方されたとしても、院外処方を採用している医療機関を受診した時に比べ、常に3割前後、患者さんのご負担額が少ないという画期的なものです。その反面これを採用する医療機関に対してはかなり経営的に無理を強いるものですが、患者さんの受けるメリットは計り知れないものがあり、今後もちょっとやせ我慢してでも院内処方を堅持するつもりでおります。

「すべては患者さんの為に!」

東京オリンピックが、その準備の段階で大きく揺れています。

メインスタジアムとなるべき新国立競技場の建設問題に端を発し、最近ではロゴマークの盗作疑惑まで吹き出す始末。この先一体どうなってしまうのか心配です。これら一連の騒動を通じ、ちょっと気になるのは、相も変わらず責任の所在がうやむやにされているという事です。誰も責任を取らず、トカゲのしっぽ切りで事態の収拾を図ろうとする関係者たちの厚顔無恥な態度には吐き気すら覚えます。

新渡戸稲造が世界に発信した「武士道精神」は一体どこへ消えてしまったのか。オリンピック組織委員会の会長を務める森氏などの世代は、その幼少期の教育を通じ、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠など多くの日本人の行動基準、そして日本の道徳の中核として機能して来た武士道精神を徹底的に叩き込まれており、「名誉」と「恥」の意識は今の若者達より数倍研ぎ澄まされているはずなのに、一連の騒動に際し彼の口から出て来るコメントは恐るべき責任転嫁の連発であり、卑怯で恥知らずと言われても何ら弁解の余地はないと思われます。

是が非でもオリンピックを日本に誘致したい余り、実現不可能な空手形を連発し、何の根拠もなしに福島原発の汚染水処理は完璧であると言い放つ安倍首相の自信に満ちたIOC総会でのスピーチにも、ただ呆れるばかりです。

また、ロゴマークの盗作疑惑についても、もし万が一その製作のプロセスに不正がなかったとしても、結果として出来上がった作品が酷似したものであるならば、やはり3年前からベルギーのリエージュ劇場で使用されているロゴに敬意を表し、潔く撤回すべきものと考えます。

さらにオリンピックの開催日が7月24日の開会式から8月9日の閉会式までとなった経緯にも大きな疑問が付きまといます。欧米のプロスポーツ日程を優先し、35℃を超える猛暑日が続く中、世界の超一流アスリートたちの健康被害あるいは参加辞退が相次ぐなどという状況を避ける意味でも、この時期の開催はかなり無謀であると考えます。

こんな中、岩手、宮城、福島の3県では、今なお8万人近くの方々が仮設住宅暮らしを強いられています。物事の優先順位から言って、福島原発の汚染水処理とその原発廃炉に向けた作業工程の迅速化、そして今なお避難されている多くの住民の方々に一日も早く平和な日常が訪れるように復興支援することが最優先事項であり、オリンピック施設建設の為、復興プロセスに遅れが出るなど断固許されない事と考えます。