鍼灸も危ない
近畿大学整形外科教授 浜西 千秋
鍼灸師は国家資格です。これまでは医師の同意があれば慢性の6疾患(腰痛、五十肩、頸腕症候群、リウマチ、神経痛、頸椎捻挫後遺症)を鍼灸施療し、療養費の保険請求が可能でした。しかし、現実には適当な治療手段はないと医療を“放棄”してまで鍼灸師に同意を与える医師は少なく、何よりも自分の技術に誇りを持っている多くの鍼灸師は保険適用に関係なく広く鍼治療を行い、施術の代価としてふさわしい額を患者さんから直接徴収してきました。
同じ国家資格の手技施療師である実数2万人の柔道整復師の場合は事実上医師の同意書なしに自由に保険施療を行い、しかも受領委任払い制度を利用して患者さんの代わりに療養費を請求し、年に約3,000億円もの保険収入があるのに対し、15万人の鍼灸師の保険療養費収入は年70億円くらいです。そのため、一部の鍼灸師には強い不公平感が常にあり、医師の同意書条項を反故にして自由に『診断』して『保険鍼灸施療』を行いたいという悲願がありました。
それから、柔道整復師のように厚労省から受領委任払い通達を手に入れて、同等の収入を得たいという希望も当然ありました。実は医師の同意書さえあれば、これまででも鍼灸師は民法による患者さんからの委任行為として事実上受領委任払いを利用できましたから、要は医師の同意書条項こそが最大の障壁であるわけです。
これまでも鍼灸業界が支援する国会議員団が動員され、昨年の基本回数制限撤廃などさまざまの要求が実現してきましたが、最近2名の国会議員により衆参両院議長あてに質問書という形で昭和25年や42年に通達された医師同意を必要とする条項の有効性、文言の是非を問うなどしてゆさぶりがかけられています。この回答は参議院で9月2日に行われたようですが、内容はまだ把握していません。
また、千葉地裁ではある鍼灸団体が慰謝料の請求と謝罪広告、そして受領委任払いを求めて厚労省と民法委任を認めない保険組合を相手取って提訴しています。そして結審が近づいたため、被告側が8月20日に和解の席につきました。1回目の交渉は当然の事ながら決裂したようですが、国は慰謝料や謝罪広告は決して認めないでしょうから、結局は既に現実には存在している受領委任払いを課長か局長通達で差し出す可能性が大です。その上で政治家の圧力には弱く、柔道整復師で前例がある厚労省ですから、同意書条項を事実上骨抜きにする通達を国民の知らないすきに出してしまう可能性が大いにありますし、果たして『医師による適当な手段のないもの』という文言は保険発150号という医療課長通知で骨抜きにされてしまいました。
しかし、そうなると柔道整複業界に続いて鍼灸業界にまで、レントゲンやMRIや血液検査ほかさまざまの診断補助手段を何も持たないのでどんな深刻な病気が隠れていても診断できないし、診断に責任を取ることはない、病気を治すのではなく患者さんから訴えられている痛みだけに施療するのであるとし、医師の関与や正しい病態の診断なしに『診断責任のない手技施療』を『医療行為』として認め、しかも深刻な『医療財政』から大きく削り取って負担させる道が開かれることになります。
今年4月には2,700人近い鍼灸師が誕生し、柔道整復師養成校と同じ数の59校に5,000人が入学しましたから、3年後にはおそらく5,000人の柔道整復師と5,000人の鍼灸師が国家免許を取得するでしょう。何より必要な実習経験が極めて乏しい未熟な新人晴眼鍼師による鍼の自由保険施療となると、柔道整復という独自性の乏しい手技施療とは異なり、鍼刺入という明らかに患者さんへの侵襲施術ですから疲労感、倦怠感、症状の一次的悪化、出血、掻痒、めまい、気分不良といった副作用や、患者さんも知らない糖尿病があったりすると、いくら清潔操作しても必発する感染、気胸、脊髄損傷、B型肝炎、臓器内異物、銀皮症といった既に報告されている合併症が増加し、それこそ国民の健康を損なう大変な社会問題となりかねません。痛みをともなう施療だから、患者さんの数はそれほど増えないという意見もあります。しかし、数ではなく危険な制度になるということが重大な問題なのです。
鍼灸という東洋医学に基づいた伝統的業界は、激増する“保険”鍼灸師によって招来されかねない事態、鍼灸が視力障害者も交えて民間施療としてこれまで地道に築いてきた信用をも一気にくつがえしてしまいかねない事態を憂慮すべきでしょう。この事態でもなお被差別意識で政治家や裁判所まで動員して権利闘争しようとする部分がどうしてあるのか、国民の一人として憂慮せざるをえません。
中国へ鍼麻酔を学びに大量の医師が日本から押しかけた時代もありました。鍼冶療は確かに生体の持つ神経生理系統を直接かき乱す効果があり、注意深く行えば手技施療として有効です。だからこそ一層乱療は危険であるとともに、医療による正しいコントロールや連携が欠かせません。むしろ、医師の同意の内容を一層吟味し、現代医学の視点からガイドラインを策定し、医師や国民が安心してゆだねることができる鍼灸師・業界になるような闘争こそが求められているのではないでしょうか。
既に有責医師による診断と同意からの『離脱』を果たした柔道整復業界は、毎年3,000人にものぼる大量の新人資格者を既に抱え込み、業界内部は混乱し、至る所に開業しつつある接骨院の過当競争と乱療によって国民の健康をさらに損ない、しかもそれが公になりかねない業界始まって以来の危機的状態を経験しているところです。もしも鍼灸業界が同じわだちを踏むなら、もっと深刻に、しかも大規模に社会問題化することを考えて欲しいと思います。
金儲けしか考えない学園産業によって無秩序に乱立された計120もの鍼灸学校や柔道整復師養成校から卒業してくる非医師・施療師群は数年後には毎年1万人に達し、医師数をはるかに凌駕し、国民の将来の健康を考える上で極めて大きな問題であります。既に介護保険を利用した不正も増えつつあります。これらの事態は整形外科医を取りまく問題ではありません。ペインクリニックを経営する麻酔科医やリハビリテーション医の問題でもありません。診断責任と治療責任を果たすことを求められている全ての医師そして医療をないがしろにしようとする、国そして社会からの挑戦ととらえるべきではないでしょうか。
2003年9月18日『Medical Tribune』
リレーエッセイ281 続 時間の風景 より